戦後の利便的社会は大人が暇になった分、子供の教育へと関心が向けられていきました。
戦前の階級社会から戦後の大衆社会へと開かれたことが、
その反面、自分の子供達に期待する、かなり歪んだ、出世欲や上昇欲が親達の幻想を掻き立て始めた事も事実です。
本来は大学は、専門学問の
研究機関です。
いわゆる学びの学校とは違うのですが、
にも関わらず、そういう事を理解しないまま、
大学進学がひとつのステータスのように社会に君臨してしまいました。
自分は何を研究しに大学へいくのか、或いはいく必要があるのかの、
という明確な目的意識をもたないまま、大学へ行く…⁇
子供の能力にブレーキばかり掛けてしまう親現象の国になってしまいました。
子供時代の大人に干渉されない無目的な遊びの世界は、
子供こそ才能の宝庫です。
子供の脳こそ、
既成観念にとらわれず、才能がジャンプします。
子供は自分の知能を発達させるを時間を奪われてしまい、
なぜ今、日本の人材が育たず、逆に若者が短絡的になっているかは、
知識過多で観念的人間になっている一方で、
脳内の実践データが貧困になっていることです。
実践データは、
脳だけではなく、
体で体験しながら、現実を実際に感じとってゆくデータです。
複雑で困難な事が錯綜する世の中で、
諸々の事を解決していくのは、大変な事です。
多層な大衆社会において、日本人の教育水準を上げるはずだったにも関わらず、
知能が平均化してしまったかもしれません。