今から10年くらい年くらい前、、
私自身が独学でだいたい脳の全貌がわかるようになり、その時、
もしいよいよA Iが登場したら人間はえらい事になるとぞーとしました。
A Iテクノロジーの利便性が社会の中に浸透すればするほど人間の脳は劣化していくと思ったからです。
人間が体を使って働き、脳を使って解決していく毎日から後退した時、人間は滅びに向かうと、ホントにホントに悩みました。
体を使って頭の中の知恵を使って.
田畑で働く事、工場で働く事、商店や会社やその他様々なところで働くことが、
実は日々脳が鍛えられ、その経験知で脳の前頭葉が成熟していくのです。
そしてそれはもしかしたら苦労の連続かもしれないが、しかし、人間として成熟する喜びもある。
しかしなぜか、この事を誰も言わない。
知識人達も誰も指摘しない。
なぜなら、それを理解できる人はほんの極小であり、それをいうと、大混乱が起きるからね。
その道具がとうとう行き過ぎて、逆に人間社会を支配し始める。
もしA I恐慌がおきたら、
企業がどんどん倒産していく。失業者が溢れてくる。
どうしたらいいのか、と悩んでいる時、遠野で児玉房子さんのガラス絵に出会ったのです。
そこには、私の好きな詩人茨木のり子さんの詩「どこかに美しい村はないかか」そのままの人々が描かれていました。
私の考えでは、おそらくこの昭和から平成にかけての時代が、最も人間にとって幸せな時代ではなかったろうか、と思うのです。
こんなふうに人々が働く姿が消えてゆく、今のうちに撮っておかねば、と、必死で思いました。
もう私もいなくなって、何十年かたった時、すっかり世の中が変わり切ってしまった時、
この時代がなんと美しく、尊かった事が分かるように。
自分達が失ったものが、どれほど人間にとって大切だったか。
そして、ただ一つの希望は、この映像を残しておくことで、それをみた人の中から、自分達の人間性を、取り戻そうとする人々が現れてくるかもしれない。
ささやかに生きる人々へ贈る、美しい人間讃歌として。
今朝、新井紀子さんの記事を読んで再び胸が痛くなりました。
何故なら以前読んだ氏の本には、
明らかに脳が劣化した日本の若者のデータが記されていたからです。
またA Iによって淘汰されていく人々の事も具体的に書かれていたのを、思い出したからです。
ただA Iの限界も、逆にA Iによって淘汰されない事は何かも、
書いておられました。
それは人間らしく、そして生き物らしく柔軟になること。
ずいぶんながくなりましたが、しかし私には今希望があります。