場違い フォー! |
市の新春懇談会に行きました。
朝からコレに出るのがイヤでイヤで
でも今年、自治会の役員を引き受けたのだから
仕方ありません。
案の定、
私は俗物ですといったおじさんおばさんが
どっといて、
市会議員だの県会議員だの国会議員だの
頭にくるのはこの人たちがご招待されていて、
私達市民より上位のあつかいを受けていることです。
いまだにこういう意識なんだよね。
主役は市民じゃないのかッ。
自治会長には申し訳ないけど、
乾杯のジュースだけ飲んで
帰ってきました。
会場を出たとたん
ほっとしました。
権威」とか権力とかドウでもいいからね。
皮膚感覚的にイヤなんです。
帰りに本屋によったら
吉本隆明が「ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ 」
という本があり、
ああ、吉本さんもソウ思うんだなと、
なぜかうれしい。
昨日も書いたけど、
社交的で人当たりが良くて、
何事にも前向きがいいような人間観が
いかにも健全なような幻想が
本当にイヤだネ。
特に集団で勝手に理想的な人間像を作り上げて
脅迫的にそれを強要してくる
頭の悪いおばさんからの被害を
私はたくさん受けました。
やっと私のように
人間嫌いの人間が
素直に生きれる時代が
来るのかなー。
最近になって吹っ切れて
そういう人たちを切り捨てて
変人として生きる勇気が湧いてきて
本当に楽しい。
今日ふと思い出したのは、
今から50余年前、
わたしが幼稚園に通っていた頃、
幼稚園は福岡県門司市大里にあった
[日の丸幼稚園」
よく覚えているでしょう!
冬になると、石炭ストーブの横か上かで、
お弁当を温めてくれました。
私の母がアルミの弁当箱を新聞紙で包んで持たせてくれ、
幼稚園についたら先生に渡すと
先生がそこに入れてくれるのです。
お昼近くなると、
それぞれの弁当が温まって
おかずのいいにおいが教室に漂ってきます。
その臭いが今でもなつかしいんです。
なぜこのことを思い出したかというと
本屋で弁当にキレイなおかずをつめた本を見たからです。
きょううびの人は本当に上手に弁当を作ります。
おかずが彩りよく工夫してあり、
見た目が楽しく美しい。
私達が小さい頃は、
ご飯も麦が入っていたり、おかずも
いつも汁の出ないきんぴらだとか
インゲンの炒め物だとか
煮物の芋だとかがむぞうっさに入っていて、
それでも、のりとか鰹節が
ご飯の中でサンドウィッチになっていると
とても美味しかったのを覚えています。
弁当の本もソウですが
今の若い人たちの感覚の良いのには感心します。
とこどきコメントを載せてくれるピーターさんの
御節の写真がブログに載せてありましたが、
とてもステキな彩りでした。
それは料理だけでなく、
色んなジャンルで驚かせられます。
話は懇親会に戻りますが、
時代はどんどん進んで
いわゆる古い、江戸や明治のなごりを
お尻に引っ付けた
あっちもこっちも丸く治めて無難に生きるというのが
破綻して、
個人個人がじぶんを、生きる。
よりソリッドでシャープな時代が来ているのにまだ
集団の中にまぎれて生きる事から抜け出せない人々。
私はちょうどその真ん中にいて
でも自分の気質としては
好奇心の塊で、先鋭的なものが大好きです。
常識や既成の価値観を打ち破って
どんどん人間がその本質的幸福感に向かって、
殻を破っていくのを見るのが
大好きです。、
一人一人が自己の責任と努力によって
潜在的なポテンシャルを開拓して
私にはない世界を見せてもらえると
心が躍ります。
ミヒャエル・エンデが言っています。
芸術や夢やファンタジーを脅かすのは「悪」ではありません。
モラルではありません。
[無」が脅かしているのです。」
(ここで言う無とは禅でいう無とは違います。)
既得権に甘んじたり、保守に胡坐をかいて
変化することを怠ること、
キラキラと輝くように開放されていくことを
しなくなった人々のことを指すのだと
私は思います。
今朝の懇親会に私はホントに
レイザーラモじゃないけれど
場違いフォー!でした。
足元には既存の価値を打ち破ろとする若者が
台頭してきているのに
安威も変わらず意識の変革が出来ないおじさん,おばさんたち、
気づいてほしいけど
絶望的か!
年を経て熟したものと
これから新しい世界を作ろうとする者が
クロスオーバーして
ホントに面白い世界が出来たらいいなと思います。
出来たら私が生きているうちにネッ。

