宇宙のかけら! |
今日はちょっとやさしい言葉を書きたいと思います。
でも、内容は昨日のことに続いたものです。
新約聖書の中に姦淫の罪で群集から
石打ちの刑を受けようとする女がいます。
みんなで囲んでこの女に石を投げるのです。
そのときイエスが言います。
『あなた方のうちで、
罪のないものからこの女に石を投げなさい!』
群集は、年長者からひとり減り、二人減り、
ついには誰もいなくなります。
一人残されたその女にイエスは言います。
『婦人よ、あの人たちは今何処にいますか。
あなたの罪を定める者はなかったのですか。』
女「誰もいません。」
イエス
『わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。』
私たちはいつも自分の理性や良心と
煩悶しながら生きています。
もしかしたら私だって
宿命的に堕ちていくように生まれついていたかもしれない。
悪意と貧困と無知のなかに生れ落ちてたかもしれない。
大きな悪はしていないが、
狡いことやずるい事は
しょっちゅうしているかもしれない。
またいつ運命的に
悪の中に巻き込まれるかもしれない。
極端な言い方をすれば、
人間あるいは人生は紙一重なのかも知れません。
だからイエスは、裁くなといいます。
市民社会の法において罪を裁き責任をとらなければなりませんが。
付和雷同して、直接自分が当事者でもないのに、
他人を裁いてはいけない。
人格を否定してはいけない。
それにしても、
イエスの頃の人間はすごいね。
みんなイエスの言葉で自分の内面を検証している。
今、私の周りでこんな風に
自分の内面を見つめられる人はどれほどいるでしょうか?
私の若い頃は特にキリスト者でなくとも、
新約聖書はひとつの教養として普通に読んだものですが、
私は始めて読んだとき、
心に響くたくさんのイエスの言葉に打たれ
涙が止まりませんでした。
その大きなテーマは『赦すこと』と『愛する』ということだったと思います。
自分が大いなる者の懐で赦されている・・・。
愛されている・・・。
そして私も人を赦し和解する。
先ほどの石打ちの刑の女の後のくだりに、
イエスは言います。
『私は世の光です。
私に従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、
命の光をもつのです。』
イエスの言葉をキリスト教という狭いカテゴリーで見るのではなく
人間に優しいまなざしを向けた救いの言葉として
宗教を超えて読まれたらいいなアーと思います。
深い深い世界です。
先日読んだ宇宙物理学の本で、
人間は死んだら分解して元素に戻ると書いてありました。
それを読んで恥ずかしながら、
霊として云々じゃないんだと、
安心しました。
しかしそれでも
私は朝晩祈ります。
祈るということが、
常に自分の心を洗ってくれる聖水のような気がします。
善も悪も大きな宇宙のうねりの中の現象で、
それが決定的なことではありません。
浮いたり沈んだり、良きことも悪きことも、
死んだ時にはみーんな赦されて
ただの元素に戻るのです。
宇宙のかけらとしてね。
すてきですね!!