修羅の場。 |
大喧嘩となった。
ふたつの強烈な個性がぶつかり合い決裂し
明け方まで苦しんだ。
家庭というのは修羅の場である。
ストレスを溜め込んだ自我が、
家庭では 攻撃的な生々しい感情になって
自分に一番近い人間に向けられる。
一度決裂したら回復不可能な他人ではなく、
家族という縛りの中で、和解が可能な身内に
人間は甘える。
時には夫であり、妻であり、兄弟であり、
そして特筆すべきは、
親が子供に甘えることだ。
自分自身を含めて、
子供が親の感情の捌け口になっていたり、
愚痴の受け皿になっているケースを
イヤになるほど目撃してきた。
或いは、
離婚した親が子供を相手が代わりに仕立てて、
いつの間にか親が幼児のようになり、
子供に甘え
子供がアダルトになってしまった例もある。
腹いっぱい遊んだり、
感情を無条件に開放して、
けんかをしたり
悪さをしたり、仲直りするという
子供の特権を奪われた子を
何人も見ている。
こう云ってしまったらオシマイだけど、
結婚は幻想です。
しかし結婚相手は自分のソウルメイト、
或いは人生のキーパーソンです。
結婚は理想化した相手の、
実は理想どころか
足りないとこだらけの人間を
如何受け入れていくかという、
長い葛藤の時間の始まりです。
こんなはずではなかった、
こんな相手ではじぶんが
満たされない。
知らず知らずのうちに相手の心を支配しようとしたり、
自分の思いどうりにいかない相手に苛だつ。
そして生の感情がむき出しにぶつかり合う、それが
家庭です。
その家庭の修羅から逃げ出す人間。
家族に対して心を閉ざす人間。
幸福になるために結婚したのに!
幸福になるんです。
幸福になるために自分は
どうあらねばならないか、
何がもっとも本質的な問題か
なにかとらぶる度に、
検証する。
また喧嘩の相手は必ず
自分が気づかなければならないメッセージを
運んできます。
他人では絶対踏み込んで来てはくれない、
重要な深いメッセージを!
そのメッセージこそ幸福への手がかりであることを!。
今までうまくいっている家族なんか見たことがありません。
うまくいっている振りをしている人たちなら
たくさん見ました。
うまくいってソウに
取り繕っている人たちも。
が、
真実は、そんなわけがナイ。
本当はどの家族も傷つき苦しんでいます。
それが当たり前なんです。
そこから逃げた人たちは、
苦しまないつもりが、
今度は孤独と独善地獄にさいなまれるでしょう。
つまり、
どう転んでも
私たちは自分の身の回りのとらぶるを
引き受け、
見つめるしかないのです。
そうして、
自分の中の独善性やわがままや、独りよがりが
エゴやコンプレックスが、
傷つきながらも、
叩かれ、打たれ、なめされ、格闘しているうちに
いつの間にか
やわらかくしなやかな自分になれるのです。
いっておきますが、
並大抵のことではありません、家族も家庭も。
我が家の父と子は
それぞれが自分のことで精一杯のストレスを抱え込んで、
目いっぱい膨らんで爆発寸前の風船だまでした。
それぞれが相手を受け入れる心の余裕がなく、
自己顕示のよくにかられ、
相手を看破したい感情に
のっとられていたと思います。
眠れないままに、
なぜこうなったのか、
二人はどういう心理状態に追い込まれていったのか
考えて、考えて
分析して、分析して
和解の接点を探して、もう
頭はぼろぼろフラフラになりました。
そして目いっぱいおいしい朝ごはんを作りました。
炊き立てのご飯とおいしい味噌汁。
卵焼きとカリカリベーコンと
塩しゃけ、エトセトラ・・・。
子が感情的になったことを父にあやまり、
父は子の切羽詰まっている状況を理解し受け入れました。
私は悲しいなーと思いながらも
確実に定点に立っている静かな自分の感情
そして、なりゆきに流されず、
とらわれず、事態を見つめている自分の中に
大いなる自己があるのを驚嘆しながら見ていました。
もうすぐ59歳の誕生日が来ます。
長かったなーと思います。
あと一息だとも思います。
自分の中の全てをさらけ出して、
生ききってて見せて、
ぽっきりと
枯れ枝のごとく死ねればいいなーとおもいます。
そのために、
またがんばります。
しかし本当につかれました。