茨木のり子/詩「汲む」 |
その報を聞いて私はしまったと思いました。
なぜなら茨木さんのことを
このブログで書きたいと思っていたからです。
私が大学生の頃、
茨木さんの詩を読んで感動しました。それは
「汲む」という詩でした。
大学に入ったばかりの頃、
他の学生に比べて劣等感の塊だった私は、
友達とうまくコミュニケーションできず、
ごろごろした石ころのように、
不器用に生きていました。
言葉をうまく使いこなせずまた、
心がきちんと伝わらないことの苛立ちは、
時に自分に対しても他人に対しても
いつもこころに怒りの不発弾を抱えていて、
よく人とぶつかりました。
そのたびに、
後悔と罪悪感と不安にさいなまれ、
ますます人間嫌いになるようでした。
その頃この詩を友達から教わったのです。
ご紹介します。
「汲む
―Y・Yに―
大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 墜ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなかった人を何人も見ました
私はどきんとし
そして深く悟りました
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです 」
今読み返しても涙が出ます。
この詩にすがるように自分の心を立て直して生きました。
いいんだよ、失語症でも、
いいんだよ、傷ついてすぐ落ち込んだって、と
彼女の詩集のなかの「花の名」という詩が大好きです。
彼女のお父さんへの鎮魂歌です。
また近いうちにぜひご紹介します。
不思議なもので、
茨木のり子、川崎洋両詩人が発起した同人誌、「櫂」の同人
友竹正則氏(詩人であり声楽家であった)のご子息に、
高校で音楽を教えました。
自分ながら不思議な縁だなーと思っていました。
あれから友竹君はどうしているかしら?
いつかいつかと思っているうちに
どんどん時がたってしまいました。
何も恩返しができないうちに
素敵だった先人達が旅立っていきます。
せめて、このブログのなかで、
この日本という国にはたくさんの素敵な先輩達がいたことを
私の知っている限り紹介して行きます。
茨木のり子さんのご冥福をお祈りしています。
突然訊ねました。すみません。
私は茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」を
いつも心の指針にして生きてきました。
「汲む」すばらしいですね。
ありがとうございました。
私も茨木さんのご冥福をお祈りしていました。
私も茨木のり子さんの「汲む」という詩に救われた者です。
この詩に出逢ったのは4年ほど前。
既に30歳を過ぎ、娘を2人生んで母親になっていた自分でしたが、どこかに自信がなく、大人になりきれていませんでした。
「汲む」を読んで、茨木のり子さんに「そのままでいいんだよ。」と優しく肩を抱いていただいた気がして、涙が溢れました。
あれから自分らしくいることが楽になり、人生が豊かになった気がします。
今は、娘たちに読んで聞かせています。
同じ気持ちにハッとさせられ、
突然コメントさせて頂き失礼いたしました。
友竹さんのご子息との出逢い、縁を感じますね。
また寄らせていただけたらと思います。
『汲む』を検索していてこちらのブログに参りました。ありがとうございました。
忘れないうちにと思い、ブログを書くために茨木のり子さんの「自分の感受性ぐらい」を検索したらこちらにたどり着きました。「自分の感受性ぐらい」と対になるような詩ですね。
この出会いに感謝して。