父からもらった負の遺産。 |
彼女のお父さんへの鎮魂歌です。
田舎の外科医として人生を全うされた
素敵なお父さんだったのでしょう。
持ち込まれるさまざまな怪我や病気と格闘し
随分と頼りがいの有るお父さんだったようです。
私の父に関しては、5年前になくなりましたが、
幼い頃から、
私は父がが恐ろしくてたまりませんでした。
クラシック音楽特にピアノ曲が好きな父は、
私を音楽家にしたいと思っていました。
思い出の一つに、
戦後まもなくまだアメリカの駐留軍がいた頃の話ですが、
父と私、多分4歳か5歳の頃だったと思いますが
質流れのオルガンを買いに行きました。
私の家は、丘の中腹にあり坂を上ったり下ったりして、
リヤカーに駐留軍から払い下げてもらった、群青色の毛布を敷き
その上にオルガンを積み、父がリヤカーを引き私が後押しをして、
家まで運びました。
その頃はやった高村光太郎の作った「歩けー、歩けー、ああるけあるけー」
という歌を二人で歌いながら、
一生懸命えんやこら、えんやこらオルガンを運んだ事を覚えています。
大人になったあるとき、カウンセリングの勉強のため、
毎日中野区の坂道を登ったり下りたりして通いました。
その道すがら、ふっと父のことを思い出しました。
それは激しく怒り、
その父の逆鱗に触れたときの父で、
彼は容赦なく幼い私を折檻しました。
私にしてみれば何がなんだかわからない、
しかし顔を真っ赤にして怒りくるっている父は
外に雪が降っているときに私をほうり出し、
家の中に入れてくれませんでした。
私はワアワア泣きながら、ごめんなさいごめんなさいと懇願し
やっと家の中に入れてもらえた事を覚えています。
また、どうしても忘れられないのは、
何かのことで怒った父はいきなり、竹の長いものさしを振りかざし、
私の腿を叩きました。
腿には竹の形が青く細長いあざになり、
私は今でも鮮明に覚えています。
そのとき私は、生涯絶対父を赦さないと思いました。
中野の坂道を登りながらそのときの事を思い出し、
悔しくて涙がこぼれました。
絶対赦すものか、」
心の中にそのときの怒りがよみがえってきて、
体中が憤りで高ぶりました。
そしてその日の午後の帰り道、
なぜか私はあのオルガンを運んだ日のことを思い出しました。
えんやこら、えんやこら、リヤカーを引いて運んだあの日のことを!
激情に走って暴力を振るう父と、
心の中に何もためず、
音楽を愛し、芸術を愛し、純粋に人間を愛した父を
私はどう受けとめたらいいのだろう?
父の激情も、純粋さも両方が私の血の中に種が落とされ、
私は自分がされたと同じ過ちを、
自分の子供たちにしてしまいました。
私は人生の途中で
自分のおかしさに気付き、
何とかこの、激しい怒りの種を自分で封印するために
今も努力しています。
他の人々もきっとそれなりに自分の親からもらった負の遺産と
格闘しながら生きていると思います。
でも、
何とかがんばっていきましょうね。