豊田美術館「内なるこども」評! |
しかし忘れないうちに書いておかねば、
こんな精神状態で書いていいのかなぁーと思いつつ。
ディレクターといっしょに愛知県豊田美術館へ行きました。
「内なるこども」という企画については、
いろいろい言いたいことはあるがそれは後にして、
二人の作家について、
一人は私が貸し出した「顔」の作家播磨みどりさん。
このうら若き女性に、
会場ではじめてお会いしました。
ディレクターは前にお会いしています。
彼女の作品はコピー用紙をつかったオブジェで、
その紙の質感はわたし的に言うと、
「無機化した感情」
或いはある場面で静止して無機物になった感情とでも言いましょうか。
その先は「死」があり、
その「死」は願望としての「死」であり、
喪失する「死」でなく、
所有される「死」である。
自分の中に荒れ狂う感情をもてあましながら、わたしはいつも、
自分が無機物になることを願望していました。
人間は有機物である自分の生命の営みに常に翻弄され苦しみます。
自分の中から感情が抜け落ちて、
ただ生きているだけだったらどんなによかろうか
と、わたしはいつも思うのです。
播磨さんの作品は、そういうわたしの思いに
見事に答えてくれ、しかも
そういう気持ちになった時、
かすかに聞こえてきたパストラーレ(牧歌的な音楽)
を漂わせている。
少女の首とやぎの首の縫合の作品などは、
「あの懐かしい無機の世界」にわたしを回帰させてくれました。
わたしの出した、「顔」は
不気味に笑っている赤ん坊の首で、
仮面の笑いをつけたまま死んだ赤ん坊、
生きられない事への嘲笑、無念さなどが付着しながら、
しかし、無機的にわらっている。
これも衝撃的でありました。
つぎにもう一つの衝撃作品、
加藤泉さんの「Untitled].
産まれてきて、まだ胎盤の幕や子宮液をまとったままの
赤ん坊がヨロヨロと屹立している。
不思議な存在感で。
又生まれながらにして
めちゃくちゃに傷ついている子供、
顔を踏んづけられたままで生きている、
根性のある赤ん坊など、
まさに現代がそのまま「在る」という感じである。
加藤氏の作品を見ると
同じ会場に奈良美智の作品もあったが、
こちらはもう時代的には過去化しているなぁー
という感じでした。
加藤、播磨、二人ともが、リアルタイムで現代を描いているのに比べ、
奈良氏はもうちょっと前のまだ、
幻想や粉飾が許された時代の子供である。
しかし。現代は人間の嘘や虚飾が魔力を失い、
そういう人間の仮面が蹴飛ばされ崩壊した後の、
新しい時代の予兆がすぐそこまで来ている。
加藤氏の赤ん坊は何一つ身に着けず、
ヌルヌルと、
生まれたばかりの裸で立っている。
しかも、堂々の頭にぺらぺらの布の体で・・・。
わたしはまさにここに「web革命・・神の視点からの世界理解」
コンピューターによって自我の汚れが解決し、
新しい世界が来るかも知れない・・・?
時代の予兆を感じる。
それはこれまでの幻想とか、ロマンとか、
美しいようだが「嘘」の芸術が瓦解し、
再び攻撃的な「赤ん坊」によって時代がこじ開けられ行く。
播磨氏の仮面笑いをつけた赤ん坊はさらし首にされ、
代わりにに仮面を脱ぎ捨て透き通った、
真のコミュニケーションの始まる時代が、
もうきているかもしれない。
時代の扉ははいつもこの「インナーチャイルド」によって
こじ開けられる。
ピカソだってそうだったでしょ!
音楽ではモーッアルト!
ビートルズしかり!
見えている人には見えているが、
見えない人には全く見えない、
そういう新しい時代を予兆する、
すばらしい作品でした。
残念なのは、
美術館!
この企画の掘り下げがほとんどかんじられないような
館長の話と
展示の仕方に、
わたし的には、バカやローでした!
そして最後に、
芸術家よ、
嘘をつくな、
もっともっと
さらけだせ!
です。