すべては自分のなかに! |
ステンドグラス作家 櫻井由美子さんの作品です。
昨日は久しぶりに飯能の名栗川沿いにあるお蕎麦屋さん
「くぬぎ庵」へ行きました。
いつも座る囲炉裏の席には、
二人のお嬢さんが先客で、
あのおいしい、天ざるを食べていました。
最近になっておそばのおいしさがわかった、って言いながら・・・。
若いのにしっとりとしていて、
とてもステキな二人でしたよ。
その後少し時間があったので、
青梅の小曾木街道を廻って、
その途中にある、「コンブリア」というギャラリーカフェに
寄りました。
このカフェもとても気に入っていて、
青梅の田舎にちょっとイギリス風というか、
大人のおしゃれとでも言いましょうか、
そんな雰囲気のあるお店です。
その「コンブリア」の入り口のドアは,
いちめんのステンドグラスで、
それも少女趣味のものではない、
理知的な色彩の、
ステンドグラスです。
ブログ冒頭の写真は、
同じ作家,櫻井由美子さんが、
我が家の表札に作ってくれたものです。
さて、
私のブログは心の話や宗教の話が多いせいか、
その系統の方が、よくトラックバックしてくださるのですが、
私としては、古典的な宗教以外、
今流行のスピリチュアル世界がどうのというのは、
あまり興味がありません。
その理由をお話したいと思います。
大きく分けて二つの観点から、
一つは、それらのものは
人間の自我(意識)の問題が解決されていない。
二つ目は、スピリチュアルな世界を語る人々が
あまりの凡庸で、自分のイメージの範囲を出ていないこと。
一つ目の自我意識については、
古典的宗教のおおきな命題は「死」、
人間の力では絶対抗しきれない「死」を、
いかに相対化するというこでありました。
いかなる権力者もいかなる王侯貴族も金持ちも、
「死」においてはまったき平等です。
人間の人生は「死」にむかっており、
その恐怖からどうしたら免れられるか、
それぞれの宗教が「死」のイメージを語ります。
中でも私はブッダの「空」というすばらしい思想を、
高く評価します。
人間がどうして「自我意識」を持っているのかは、
その生命保全のためのコントローラーとして、
「危機から自分を守る意識」としての自我。
そのほかの何か?
自我があるゆえに、
その自我が消える(自分がなくなる)「死」は
いかに恐怖であることか!
その自分の『死』の恐怖にに
取り付かれて人間は欲を出し、
その欲に取り付かれて、人間は不幸になる。
ブッダが考えたのは、
いかにこの「自我いしき」から人間を解放するか!
どうしたら心が平安のうちに「死」を受けいれことが出来るか。
ブッダがたどり着いたのが「空」という境地です。
「空」 空っぽ!
自分への執着を出来るだけ捨て去り、
空っぽの心で風のように生きる。
運命と宿命を受け容れて、変幻自在に生きる。
人間の心は潜在的なところにある生きるためのデーターと
それに方向性を与える感情と理性でコントロールされています。
そしてそこの根底にある、
生きる恐怖、すなわち死ぬ恐怖を取り去るために、
執着をすてる。
自分への執着を捨てて欲を捨てて運を天に任せ自在に生きる。
イエスも同じように
「空の鳥を見なさい。
種蒔もせず、刈り入れもせず
蔵に収めることもしません。
しかし、あなた方の父は(神)
これを養っていて下さるのです。
あなた方は、鳥よりも、
もっと優れたものではありませんか。」と
言っています。
このところ頻繁に書いた「インナーチャイルド」は
心の奥にいる、自分が抑圧したもう一人の自分です。
それはまさに無視され抑圧され傷ついた自我の不安や怒りで、
心の隙間をついてその人の感情をコントロールしてしまいます。
逆にインナーチャイルドを認知しこの感情や不安を解決すれば、
執着はどんどん薄くなります。
この認知されていない自我こそ執着の塊だからです。
しかしこのインナーチャイルドを救い上げるには、
正直に自分の心と向き合い、
自分の中にある傷や恐怖や不安と対峙しなくてはなりません。
それが物凄くたいへんなことなのです。
言っておきますが、
どんなにポジティヴに発想をかえたり、
自己暗示をしても、
傷ついたインナーチャイルドを解決しない限り、
それは自分の存在を知らせるために何度も何度も
顔を出しますよ。なぜなら、
彼らは救ってほしい、
助けてほしい、
もうひとりの自分だからです。
ブッダは慈悲といい、
イエスは愛といって、
差別されたり、抑圧された自我を癒します。
それは人間がいかにきずつき、
不安に怯えながら生きているか知っているからです。そして、
どの人間も対等で平等で、この世に存在する意味を持っているのだから。
事実、生き物はそのDNAを上書きしながら進化してきたでしょ!
仏教で言うと輪廻転生!
生きると死ぬの大きな循環のなかに生命があります。
すべてに意味があるのです。
それを信じて、自分に執着することをやめなさい。
といっています。
安心して運を天に任せて生きなさい!と
実際のところ自分が空っぽになればなるほど、
自分の周りに人が集まり、物事が成就していきます。
ただそれは一つ一つ自分を見つめていくという、
しんどい作業の中でひらけてくるもモノで、
時間が必要です。
人生というナガーイ、
スパンがね。
つまり、悩みながら傷つきながらも光のさすほうを探して、
生きて行くしかないんです。
そして出来るだけ自分のインナーチャイルドを見つけて癒す。
今必要なことは安易に、発想を変えるとか、
こういう風に自己暗示をかけるとかではなく、
弱肉強食の世の中を、
矛盾だらけで暗い世の中を、
不正がはびこる世の中を
それでも勇気を出して生き抜いていけ、
自分の総力を使って戦い抜いてゆけ
神はじっとそれを見ている。
ということだと思います。
ましてや、
ここからは二つ目の
あまりに凡庸なイメージ云々・・・のとこですが、
つまり自分たちのこれまでの、
または、今イメージしていることの延長線上にしか、
イメージやビジョンをを結ぶことが出来ないどころか、
祖先の霊だの守護霊だの、前世だのと、
過去のところにばかり執着したり、
見えないものを人格化することなど、
私はナンセンスで危険なことだと思います。
それに生き物の歴史は
とんでもない突然変異から始まっていますからね!
わくわく生きるためには、
火中の栗をお拾いなさい。
成功するためには、
自分の中にある不安や恐怖と戦いなさい。
そういうプロセスを経て人間は、
自分で幸福をつかむのです。
又このプロセスこそが「生きる」ということであり
プロセスの終わりには「空」!
すべてからの開放があると思いますヨ。
又長くなりましたね。
最後に、とても大切なことを、
人にはその人が辿らなければならない大きな試練と、
そのあとの気づきがあります。
だから、神様はじっと見ているだけ・・・。
他人の人生に手を出してはいけません。
今はテレビで見せものにさえなっている。
そして人間は自分以外の人に依存したり、
回答をもらってもいけません。
すべて「答え」は、
自分の中にあります。
苦しんで、
産み出してください。
神(おおいなるもの)が見守っています。
火中の栗をお拾いなさい。
自分を大切にすることと守ることをどこかではき違えてしまったのでこの言葉を読んで胸がドキドキしています。