どこからでもかかってキゃガレ! |
やっとコメディアンの顔になっていた。
彼はもちろんお笑いタレントで破格の存在であるが、
しかしどこかで芯からこてこての
泥をかぶることを逃げているように
私には思えました。
頭の廻り方が尋常でないくらい早い。しかし、
それが災いしてどうも
頭で芸をしているように感じていた。
彼の笑いに頭は反応しても
からだが笑わないのです。
ピストルのようなしゃべりを
自己防衛の武器として使い、
見ているものに自分の本質を見破られないように
目くらましにしていると
私には見えました。
だからいくらタレントとして別格でも
どこか小者というようなものが
否めませんでした。
ところが最近見たC.Mのなかの顔が
やっとお笑いのオッサンの顔になっている。
泥臭く、スケベったらしい顔になり、
全体から腰の低さが見えていました。
もともといわゆる「芸人」といのは
市民社会から逸脱している人々で、
いわゆる河原コジキ、
市民社会からドロップアウトしているゆえに
市民社会の禁忌を破って、
言ってはならないことを言い、
やってはならないことをやり
善良な市民がかぶっている仮面のウラの本音を
暴露し、毒を吐き笑いを取っていた。
そこには生活が保障されない代わりに
底抜けの自由があり、
人間存在の、何でもありが許された陶酔さえあった。
いあまは河原コジキとは呼ばれず、
憧れのタレントもどきになっており、
もうひとつはじけ飛んだ芸人はなかなかいない。
しかし、あの時さんまの顔とダブって、
藤山寛美の顔が見えたから、
もしかしたらさんまがもう自分の市民的ステータスに
耐え切れず、自爆的に、
ついに観念しつつあるのかもしれナイ!
頭の芸から、
下半身まで自分のすべてをさらすさらす覚悟の芸に
彼は熟してきたのかもしれない。
本物なら・・・。
藤山寛美も志ん生も
そこにいるだけでもう異数の世界!
面白くて転げまわるような
オーラが全身から光り輝いていた。
守っているヤツには絶対でないオーラ!
彼らがすっぽんポンポンで立っているそこは、
軽妙、洒脱で飄々として
どこからでもかかってきやガレ・・・!っという
自信に満ちた芸がありました。