21世紀ルネッサンス! |
裸婦 加藤孝一
2年ぶりに加藤孝一画伯のところを訪ねました。
奥様が90になるお母さんの看病に、
九州に行っておられるとのことでしたが、
おぜんざいを作って待っていてくださいました。
上のクロッキーは
偉ぶらず、欲張らず
毎日毎日線を描き続ける加藤先生の
裸婦です。
いつか大勢の若者に、
先生の絵を見てもらえる個展をしたいと
思っています。
昨日シュバンク・マイエルのことを
書きましたが、
ふと、
このまえ寝る前に、
うつらうつらしながら書いた
自分のメモと共通するところがあるので
今日はあのメモを
ご紹介します。
〇メモ
もしかしたら
今までのようなアートというジャンルは
これから終焉していくかもしれない。
そもそもアートの起源なんて
生活と一体したところから少しづつずれて
そのずれを意識化して
ついには独立したジャンルになってしまったんだもの。
独立したがゆえに
その中身はどんどん形骸化して行ったとも
いえる。
それは工芸だって同じで
その最たるものが、陶芸。
今では某有名作家の杯が百万円だなんて
本当にばかげていると思うよ。
工芸企画品と手仕事の二極分解して
手仕事のほうはいつの間にか
破格の値が付くようになって
企画品はますます面白くなくなっていった。
しかし
次の時代の若者達はこの上昇し
芸術化けしてしまった手仕事品に
興味を持つだろうか・・・?
某有名作家だからと言って
杯に百万円を出して買いたいと思うだろうか・・?
今の時代から未来にかけて、
私たちのアナログ的感性は
きっと壊れてゆくと思う。
次の時代は私たちの本能的世界の解体が
はじまり、
人間の脳のデジタル化の中で、
私たちが自然に対して抱く親密性が、
変化していくと思う。
土や木や空や海・・・。
そんなものに対する思い入れは
物凄く乾いたものなるのでは
ないだろうか。
物凄く乾いていて
空を見ても、海を見ても
誰もたいして心を動かさない。
それはいわゆるふるさと(帰属)意識が
変わってしまう。
自分の生まれた川にサケが帰ってくるような
そんなことが
壊れてしまうような気がする。
ではどういうことが起こってくかというと、
バーチャルな世界に帰結してゆく。
自分は母親のお腹から生まれたという生々しい記憶が
薄らいでゆき、
自分の所属する集団、社会が極めて流動的な場所になる。
つまり
ふるさとのようにじぶんが帰って行く不動の場所が
なくなっていき、
人間がいとも簡単に移動し
定着することが
あまり重要でなくなる社会が、
来るような気がする。
つまりアートという自分の出発点であり、帰結点であるものを
必要としない社会が来るかもしれない。
もうすでに集団は解体をし始めている。
どこにも所属したくない若者がたくさんいて、
生活とか家族とかがバラけ、
全くの「孤」の入り口に皆が入り込もうとしている。
人間がみなバラけ、今までの、
他者との間ではぐくまれた文化が、
他人との関係性が喪失とともに個々に屹立していく。
今までの共同性は風化して行き、
今度は極めて厳しい
自分とは何かが
問われてゆくでしょう。
個々の人間がそれぞれ自分の基盤を持たなければ
息がつけない社会は、
逆に
自分の基盤を持った人間には
どんどんその隘路が開けて、
才能開花してゆくでしょう。
集団幻想が崩壊し
規制しあう社会の綱が切れたとき
問われるのは
某有名作家の杯ではなく
自分のインスピレーションの投影としてもアート。
確かに自分の何かに活力を与えてくれるアート。
自分の生きることに突き刺さってくるアート。
自分の脳を刺激し
創造性を刺激するアート!
装飾的なアートはいらない!
真の意味でのアートの真価が問われてゆくでしょう。
途方もない値が付くアートは
仮想の共同性の中でのみ
セイリツする。
権力の、支配の、枠が
個々のにんげんを支配できなくなる時代には、
途方もなく奔放で自由で面白い
そしてもっと「生きる」ことに密着した
アートが生まれる。
・・・・・・・・・・
今日はなんだかとても小難しいことをいっぱい書きましたが、
私の意識が緩んだときのメモです。
ヤン・シュバンク・マイエルの作品を見て
彼の無機質なオブジェのうめきと共通する
予兆を
私の無意識が感じていると、
私は考えますが、
それもまた
私の勝手な思い込みかもしれません。
しかし
この感性のデジタル化時代を通り過ぎて
その後には
きっともっと進化した人間の肉感的な
或いは洗練された、本能的な感性が、
花開いてゆくと
私は思います。
21世紀ルネッサンスが
始まるかもしれない!
それまでは生きれないけど、
見てみたいなあー!
では又。