散らばった自分を拾い集めて! |
ビリージョエルを聞きながら
高速を突っ走りました・・・。
エレキベースガンガン
それにサックスとトランペット
シンセサイザーそしてパーカッションのうねりに中に
ビリーのガラスのようなピアノの音が
通り抜けて行く。
アアモウみんな忘れて
何もかもドウでもいいなあー!
無常観と虚無観が錯綜して
甘露、甘露
ヤニを一服・・・・。
何時までもこの時が
終わりませんように・・・。
みーんな
放り出して、
自分のことだけで
自分を閉じることができる
至福の一時でした。
物心ついたときから
キーワードは「自由」
親にからみつかれて、
心理的に支配されていたからね・・・。
当時は何も自覚していなかったけれど
なぜか
「自由」な対する憧れで胸がいっぱいでした。
つまり
私には自由がなかったんです。
自由、自由 自由、
中学の頃はフランス映画とシャンソンに懲り
ラジオにしがみついて
聞きました。
コラ・ボケール、シャルル・アズナブール
ダミア、グレコ 、パタシュー、リシェンヌ・ボワイエ。
ああ、ジジ・ジャンネールもいたね。
そしてエディット・ピアフ・・迫力満点でした。
一番好きなシャンソンは
「群集」
イントロのメロディが響いたとたんに
胸が高まり、
あの「天井桟敷の人々」のシーンがよみがえりました。
かなり、ませた中学生だったと思いますが、
高校のときはアポリネールやアルチュール・ランボー
ジャンコクトーの詩を深く理解できないまま
ダダや頽廃にあこがれて
読んでいました。
自分ではちっともそんな自覚はなかったのですが、
今から思うと、
かなり傷だらけで生きていたように
思います。
このところ、
からだが疲れているのでしょう。
自分に閉じこもり、一切がっさいを
放り出して
自分を純化させたい欲求があります。
今日は
萩原朔太郎の詩
「晩秋」を
ご紹介して
終わりにします。
若い頃何度も何度も
読み返した詩です。
晩秋
汽車は高架を走り行き
思いは陽ざしの影をさまよふ。
静かに心を顧みて
満たさるなきに驚けリ。
巷に秋の夕日散り
舗道に車馬は行きか交へど
わが人生は有や無しや。
煤煙くもる裏街の
貧しき家の窓にさへ
斑黄葵(むらさきあおい)の花は咲きたり。
※むらさき葵とはゼラニュウムのことです。
桜が咲いて春が来たばかりだというのに
秋の詩をのせて
すみません。
でも
今日は、
散らばった自分を拾い集めている私が、
いました。