足利義政! |

銀閣寺を建てた、八代将軍足利義政の木像です。
もしかしたら、今わたしが苦しんでいる事に,
答をサジェスチョンしてくれるかもしれない,
人物です。
今その苦しみを解くために
考えを進行中です。
あまりに深くて
世間一般から逸脱しているその事が
心の中に
マダ塊り状態で、
こなしきれていません。
でもこの義政将軍もきっとそこに
生きるスタンスを見つけたのだと
思います。
それを理解していたのは
彼の周りのほんの一塊の人間で、
でも、
なかでも、
あの銀閣寺が一番そのことを
あらわしているように
思いました。
わたしも言葉を選び
なんとかお伝えできるよう努力してみます。が
まだまだ時間が必要です。
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銀閣寺を建てた将軍足利義政は
8歳のときに将軍に就任しますが
ほとんどお飾り状態の将軍で
側近や妻のドロドロとした権力争いの明け暮れの中で、
自分を喪失していきました。
政治には眼もくれず女や酒に耽溺していました。
当時の世のなかは、
飢饉と戦乱に
巷に死人が溢れ、
地獄絵図のようだった中で
それを救済することもなく、
義政はひき篭ってしまいました。
おそらく絶望と無力感の中で
彼にはどうすることもできない現実を
見ないように生きていたかも
知れません。
義政については、
無能の将軍であり、、
11年にわたっての内乱、
応仁の乱を人事のように放置して、しかも、
乱後5年目にあの銀閣健設の工事を始め
湯水のように財政を使い尽くした、
ばか将軍のように評されています。が
その一方で
日本の文化のキソである書院造や
庭園、茶道や華道などの礎を作った人物として
評価されています。
京都についた日に
銀閣寺を見に行きました。
権勢欲の象徴のような金閣寺に比べて、
入り口からして
全くの個人宅のような低い門をはいると、
池を前に古い木造りの銀閣が、
楚々として立っていました。
近寄ると本当にモウ
ボロの木造の家で、
たしかに屋根の稜線や全体の形は
金閣寺を踏襲していますが、
問題にならないくらい
こちらのほうが質素です。
とりあえず順路に沿って
庭を巡り、
そばの小山を登っていきました。・・らね。
小山の中腹から見る、
遠くに京都の町を背景にした
銀閣が・・・なんとも言えず
美しい・・のです。
こげ茶色の小さな銀閣が
山の緑に埋もれるように立っていて、
風景と溶け合って
本当に無欲でで立っていて・・・・。
うつくしいなあー!
誇らず、気取らず、
水辺の葦のように静かに風と木々中に
佇んでいる
銀閣・・。
ステキでした。
ものすごく洗練された美しさを感じました。
義政が座禅に使った部屋があります。
それは「心空殿」と呼ばれる部屋で
義政が生きていた頃は
一切なにもない「から」の部屋で
それは禅の「心空、及第して帰る。」という
「心を空にしておくことこそ、
一切の発見の基礎である」という思想に基づいて作った物だそうです。
又彼の晩年の居室「同仁斎」という部屋は
四畳半のちいさな書院造で
違い棚に文房具を入れて過ごしたという。
将軍としてはあまりに小さく簡素な部屋なんだそうです。
それとこの同仁斎という部屋のいわれは、
中国の古言「すべて生あるものは等しく慈しむ」という
事からつけられたもので、
義政が自分の芸術観や学問観を共有できるものは
身分を問わず重用した思想を表している。
実際彼の庭を作ったのは
河原者といわれる
いわゆる河原乞食同様の
庭師、善阿弥やその配下の者たちであり、
文化のカオスが
既成の文化や洗練されたものではなく、
市民社会からはみ出した自由な賎民たちの中にこそ
その息吹があることを
知っていた。
文化の根源はいつも、
もっとも貧しく、
もっとも卑しく猥雑な中から
原始的なエネルギーを伴って
うまれてきます。
だからこそ、
そこ抜けに自由で奔放な原石が
生まれるのです。
そのことを知っているだけでも、
只者ではないと、
私は思うのですが、
義政の顔を見たとき、
いわゆる軟弱者の放蕩将軍の顔ではなく、
内向的ではあるが、
芯の所に一刻の意志を見る思いが
しました。
おそらく権力を巡って、
欲にまみれた争いの真っ只中で、
人間の浅ましい姿を見続けたであろう義政が
絶望しながらも、自分を建て直し
自己を維持し、喪失させないために
その内面で問い続け、
何を捨て、何を拾う・・という自己選択の結果が
あの銀閣に象徴される
世界だったと
わたしはおもいます。
外界から引きこもり、
自己を閉ざして守ったのは、
脆弱で壊れそうな自分・・。
その感性と世界観が
鎌倉文化で生まれ
東山文化の骨格となった「幽玄」の世界として!
おぼろげに見え隠れする侘びしく
悲しみを伴った深い奥行きの美しさ・・として結晶し
義政はそれを具現化していった。
世を捨て、
戦乱と飢餓を前にしても無力な自分を
突き放し、
無力のままそこに
放り出してしまう・・。
それは弱さとともに,
強さでもあった。
江戸の後期に出現した乞食坊主の良寛が、
越後の地震災害について
「災害にあうのはあうでよし」と突き放したように、
この世で、自分が出遭う一切合財がすべてが、
自分の人生の骨格や肉付けとなり、
一寸先の闇の世を自分が引き受けて生きるしかない。
「災難に」あうなら、あえばいい」という言葉は、
その災難さえも、
自分が直面して超えたときに光り輝く珠玉として,
人生のパラドックスとなる。
おためごかしに救済を唱えず、
すべて自分でやりぬけと突き放す。
そこにある徹底した人間信頼こそ、
私が彼らから学びとらなければならない
強さであると思います。
人間の世はなんと不合理で
人間とは、なんと珍なる生き物か・・・。
人間の脳は、
或いは意識は、
常に他人との関係のなかでしか
その合理性を発揮できない。にもかかわらず、
人間は一人一人が断絶した脳(意識)のなかで生きている。
今、私自身が苦しいのは、
この断絶の共有者がいないこと、
あまりにも一般とかけはなれすぎてしまった、
自分の孤立をひきうけられず、
宙ぶらりんの自分の弱さに怖気づいている。
このところ、バランスを崩した自分に
悲しみが蔓延し
心がぼろぼろのまま
たて直せず
ずっと不安の中にいました。。
昨夜うとうとしながらも、
全身が緊張し、
パンドラの箱を開けたみたいに、
それまで意識下に押さえ込んでいた不安が一気に
飛び出してきた。
まるで羽がはえた鳥のように、
次々と不安が襲ってきては
体の中につきささっていきました。
最後はつきものがついたように
何かに羽交い絞めにされたような感じがした。
しかし、
そのとき、
不思議と自分のなかに
怖いと思いながらも、
この正体をみてやれと思ったのです。
一瞬のバネでした。
若いころから比べたら
随分つよくなりました。
そしてそのまま熟睡に入ったらしく、
朝目がさめるまで覚えがありません。
それでも今日はいちにち、
どうしても自分がふにゃふにゃのまま、
気力をとり戻せませんでした。
しかしあの義政の顔を本で発見し、
きっと彼もどう生きたらいいか逡巡して
苦しみ、その結果として
あの銀閣寺まで辿り着いたと
直感しました。
つらいときは無理をせず自分に引きこもり、
みーんな放棄して
捨ててしまえ・・。
自分を放棄することも、
他人を突き放すことも
みーんな許される。
生きることは何一つとして、
きまりなどない。ただ
ただ
生きていればいいんだと・・。
ずーっと以前にやっぱり、
つらいことが自分のなかから抜けないとき、
関越を飛ばしていました。
そのとき、ふと、良寛が
「生きるだけでいい。それだけでいい」と言ってくれたような、
気がしました。
人間は生きさえしていればいいんです。
ただひたすら生きる。
今日はたくさん書きました。
正直に書きました。
弱い自分がふがいないけど、
時間がきっと解決してくれると
おもいます。