評論「澤賢治ファンタジー劇場」 |

手作りの本をつくりました。
このブログで書いた宮沢賢治の話を5点絞って
手作りの本にしました。
13日から千葉の長生村のギャラリー「七井土の灯」で
開かれる「誰でも芸術家祭・・・!」で
売ろうと思います。
一冊300円で・・・(?)限定5冊を!(笑)
「誰でも芸術家祭り」のコンセプトは
プロ、アマを問わず、
自分の作品を見せたい人
売りたい人は、
誰でも参加できるおまつりです。
そこでわたしも
自分の本と裸婦デッサンを売ることにしました。
トイウワケで
明日11日から13日までブログをお休みします。
が
せっかくですから
本にした内容を
このブログに掲載しておきます。
以前に読んだ方もおられると思いますが、
退屈しにぎにでも
読んでください。
★ 宮沢賢治「ファンタジー劇場」
1 宮沢賢治ファンタジー劇場
実は、私のメールアドレスや、ブログのdenshinbashiraというのは
宮沢賢治の[月夜の電信柱」から取っています。
35歳くらいのときでしたかね、
それまでチンプンカンプンだった彼の詩[春と修羅」の「序」の言葉が
身体の中でスーッと理解できました。
そのとき、冒頭の
わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です。
という言葉が、ピンと来たのです。
人間をどんどん分解していくと最後は原子であり
そのエネルギーの複合体でもあります。
この詩を読んだ時
自分がひとつのエネルギー体であり
常に変化をしながら、
壮大な宇宙の流れの中の
一片に過ぎない、ということが
なぜだかピンときたのです。
一片に過ぎないけれどしかし
宇宙を構成するための必要不可欠な一片。
重要な一片。
以来賢治のとりこになりました。
賢治については私がその作品を分析しながら書いた
約300枚の未発表原稿がありますので、
オイオイこの場でも発表していこうかなと思っています。
ドイツに一緒に行った人で、花巻出身のおじさんがいて、
実際の賢治はどんな人だったんですか?
私が聞いてるには現地人たちから
「バカっ子」って呼ばれてたらしいけど?
と切り込んで聞いてみましたら
うんうんとうなずいて、
ナンセ天才ですから
まあ変わってたようでしたヨ。と話してくれました。
一般的に賢治は神格化され偉人化されていますが
私のブログを読んでくださる方は多分、
彼が気の小さい
極めて内向的で、
他人とのラポールが取れなかった
自己完結人間だということを理解されると思います。
彼が夜中に出歩いて、
首から提げた手帳にモチーフやインスピレーションを
色々書き込んでいたこと。
時々わけのわからない奇声を発したり、
踊りだしたりしていた事など。
彼の中に彼しかわからない何かに彼が作動し、
他人には理解できないけれど、
豊かで繊細なキラキラした世界を見ていたことは
彼の作品の中に宝石のように放出されています。
しかし現実の場で彼が生きることが
どんなに辛いものであったかは、
容易に察することが出来ます。
彼は本当は自分の周りに壁を築き
他人とは没交渉でいたかったかもしれませんね。
しかし、それが許されない環境の中で
かろうじて世間とのパイプとして
法華経にしがみつき
自己をいけにえとして差し出しながら、
農民への自己献身という形で、
世間と関わったと思います。
賢治が解放されるのは
皆が寝静まった夜中であり、
絶対に他人が踏み込んでこない
三次元の世界です。
物語の主人公達はたびたびこの世から脱出して
夢の中へ入ったり、
幻想と現実が錯綜する世界へと迷い込んだりしています。
夢や幻想の世界にいる時、
又は満天の夜空を背にして
よーっ賢治大先生の
ファンタジー舞台の幕が開かれたのです。
なんだか現代の若者達と似ていませんかzzzz?
賢治のことは話しだすとキリがありませんが
今日はこれまでにしましょう。
では又。
2 「どんぐりと山猫」
かねた一郎さま 九月十九日
あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
あした、めんどなさいばんしますから、おいでんなさい。
とびどぐもたないでくなさい。
山猫 拝
これは宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」の冒頭にある、
山猫から一郎に来たはがきの文です。
山猫に代わって書いたのが、馬車のを世話する召使の別当です。
彼は一郎にあったとき、このはがきの出来具合を聞きます。
最初は、下を向いて「あのぶんしょうは、ずいぶん下手だべ」と
おちこんでいるのですが、
一郎にほめられてだんだん自分を取り戻してゆき、
最後は「あのはがきはわしが書いたのだよ」と誇ります。
この童話は大好きで、
一郎が山猫を探して、山の小道を登っていく、
栗の木や、笛吹きの滝やリスやらの描写を読みながら、
子供の頃の自分が一緒に歩いているような楽しさがあります。
全体にまだまだ心に余裕があった頃の賢治の、
ユーモアが流れています。
さいごにいかにも賢治らしい結末があり、
「この中でいちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、
てんでなっていなくて、頭のつぶれたようなやつが、
いちばんえらいのだ。」
という結末には賢治の作為があり
私としてはいやなんですが、
そこさえ除けば詩情が溢れたいい作品です。
こういう結末にはなんとなく賢治の押し付けがましさがあります。
押し付けがましいということは、反対側に、
彼の強迫観念があります。
でも、
そこをよく見ると、
賢治の本心は本当はこうではなかったのだと、
私は思うのです。
強力にそう思い込もうとすると、
その潜在意識が脅迫的になり、相手に反論を許しません。
それはそこに恐怖や危機感があるからです、
「そうあらねばならない」何かの背景を、
彼が背負っているということでしょうか..。
こういう脅迫的な倫理観や道徳観を取り除いた後の賢治の作品は、
品格に満ち、きらきらした言葉のアンソロジーで、
とても美しいです。
たぶん本当の彼はこんな抹香くさい感情から開放されて、
そういうチャチな人間の俗世界を超えて、
羽ばたきたかったのではないかと、
思います。
3 「雨にもマケテ」
宮沢賢治は
本当は自己防衛カプセルに入っていたかった。
自分の中に引きこもり、
自分が築き上げた独特の賢治ワールドに
いたかったんだと・・・。
それが許されず、
世間の人々と交わるために、
自己犠牲的献身を農民に奉げた、
と書きましたが、
そのことをちょっと考えてみたいと思います。
どこから入ったらいいですかねえ。
ああそうだ、
人間は、肉体と脳を持った一個の
エネルギー体だということを随分お話しましたが、
その生まれ落ちた地域の文化と文明に従って
生き方が規制されてくる。
つまり日本人に生まれたら
日本の文化と文明にしたがって生きるよりありません。
人間の社会は集団で生きるため、
その集団は自分たちが生き延びていくために
お互いを規制合しあいます。
それが法であり、世間の常識といわれるものであり
又、暗黙のうちに了解されている様々な意識です。
しかしそれは絶対的なものではなく、
その社会の存在の条件によって進化、変化していきます。
さて、本題
賢治が生きていた頃、
イヤ今でも、
特に日本人は集団から逸脱することをあまりヨシとはしません。
集団からはみ出したり、変わっていたりすると、
たたかれたり、無視されたりします。
だからほとんどの人間が、
集団内に治まり、無言の自己規制、他者規制をしあいます。
しかしどうでしょう、
そろそろコレをやめたいと思っている人たちはいませんか?
私は60歳のオバンでもうすぐおばあさんですが
人生を重ねる中、終わりが近づくにつれ、
孤立しようが、無視されようが、
本当の自分のきもちに沿って生きたいなアーと
つくづく思います。
もし賢治が自分の思いどおりに生きれたら
もう少し長く、生きれたかもしれません。
しかし、逆に、
その葛藤があったればこそ、
あの作品の輝きが出来たのかもしれませんが・・・。
でもうれしいことに
ちょっと前までは、
人間みんなと仲良くしなければいけないとか、
引きこもって他人と交わらないのはダメだとか言われていたけれど
最近、そこんところがずいぶんほころんできたように思います。
いいんですよ!
人間なんでもあり!
生きることはとても大変です。
独りよがりだロウガ、
自己中だろうが
引きコモリだろうが、
まず自分という人間の「核」を守り育てることのほうが先決です。
まず自分を生きることです。
いつも集団の影に自分が侵食されていることが
どれほど辛いことか。
本当は他人と妥協するほうが辛いんですよ。
歴代のアーティストのすごい人に限って
若死にが多い。
死んでからしか認められない人もいっぱいいる。
悲しいね。
変だよね。
でも最近の若者達は、自分の砦を守る人が増えているように思います。
若いときは一時的にもこういうことが必要で、
時に孤立したりしても守らなければならないことがあるんです。
でも大丈夫。
人間は年とともに、或いは経験をつんでいく中で
学び、豊かになリ、ほぐれていくものです。
逆に
他人に侵食されすぎて、良い人になりすぎた人間のほうが危うい。
集団や他者の価値観に翻弄されて
ヘラヘラと薄っぺらになった人は、
自分を取り返せないかもしれない。
悲しいけど、
よっぽどがんばらないと。
若者よ
闘うことをおそれないでね。
他人と不和になることを恐れないでください。
いっとくけど、闘うということは
喧嘩して殴りあうことだけじゃない、
沈黙して抵抗することも
自分を守るために主張しぬくことも
引きこもることも
色々あるよ。
アレッわたしゃアジっているよ。
でも、自分というものをしっかり打ち立ててこそ
心の余裕が生まれる。
他人を受け入れるスキマが出来るというものさ。
本当に仲良しになるタメには
色々揉め事を越えていかないと・・・・。
最後に私流「雨ニモマケテ」・・。を
愛する宮沢賢治にささげます。
雨ニモマケテ
風ニモマケテ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケタ病弱ナカラダヲモチ
自分を立派な人間にしたいという欲に駆かられ
内部に燃えるような感情をモチ
イツモ他人の視線から目を伏せていた。
本当は、美食家なのに、
無理をして菜食主義となり
あらゆることの中心に自分をおいて
そしてイツモ自意識に悩まされ
本当は自分のほうが他人よりよほど優れていると思い込み
人々を啓蒙するべく
松の林の影の小さな小屋に独居した。
東に病気の子供があれば行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を持つこともしてやったが、
他人は少しでも愛情を示すと
とたんに尽きることのない甘えと依存で
自分のエネルギーを貪られていった。
南に死にそうな人があれば怖がらなくて良いと
軽率に言葉を発し
北にけんかや訴訟があれば
尽きることのない欲にかられた人間を見て
絶望した。
日照りのときや寒さの夏は
ナントか被害を防ぐべく奔走し
自分の持てる能力すべてを使い果たしたが
結局は期待されたとおり行かなくて
針のむしろの上でオロオロと動揺した。
自分の限界をはるかに超えて人間の現実は厳しく
自己の能力を過信し慢心した自分を
人も自分も許さないだろう。だから
みんなからデクノボーと呼ばれ
人々の視界の外にあって
期待もされず、かといって邪魔にもされない
無機物(死人)のような
そういう者に私はなりたい。
なぜならばそこでこそ
私は私となり
ほっと心が安心するからだ。
うわーっ
強烈!だねー。自分で書いといて・・・。
賢治のファンから殺されそうだねえ。
でも、もし私が
苦しんでもがいて生きる賢治の傍にいれたなら、
「もういいから自分の好きにシナ」って
言ってあげたかったです。
ザンネン!
④ 「至宝の時」
宮沢賢治の作品の中に
「水仙月の四日」という作品があります。
真冬の終わりの最後の雪ふぶきの頃、
水仙の花が咲く寸前の月とでも云いましょうか。
その作品の中にこんな描写があります。
「すると、雲もなく研きあげられたような群青の空から、
まっ白な雪が、さぎの毛のように、
いちめんに落ちてきました。
それは下の平原の雪や、ビール色の日光、
茶いろのひのきでできあがった、
しずかな綺麗な日曜日を、
いっそう美しくしたのです。」
これは雪童子や雪狼が吹雪の雪を降らす前の光景です。
そして夜じゅう雪を降らせて夜明け近くなった頃
雪を降らす作業が終わります。
そのとき
「野はらも丘もほっとしたようになって、
雪は青じろく光りました。
空もいつかすっかり晴れて、桔梗いろの天球には、
いちめんの星座がまたたきました。」
と、これは夜明け寸前の空のことですね。
賢治の作品も樋口一葉の作品の中ににも、
美しい描写が宝石のように、
ちりばめられています。
その文を読んだとき、
私はものすごく心を洗われるのです。
いいなーっていう言葉が
体中に沁み渡ります。
賢治の存命中にたった一つだけ出版された童話集
「注文の多い料理店」の序の文なんかを読むと
胸倉をつかまれたように心が震えます。
こんな思いを誰か共感してくれる人はいないものかなー!
今日も帰りの車中でモーッアルトの、
ハープとフルートの協奏曲を聴きながら、
何か永遠なる広がりを感じさせるハープのメロディから、
一瞬にして、
トルストイの「戦争と平和」のなかの
戦場で負傷したアンドレイが見上げた、
何処までも広がる青い空のことが浮かんできました。
瀕死の状況でアンドレは永遠なる空の下に
ちっぽけなちっぽけな人間存在を感じるのです。
10代の頃に読んだ本の一節です。
時間に追われ、生活に追われる中で、
美しい文章や、音楽、絵画などに
自分が持っていかれ
深い感情の海の中に、
たったひとりで浮遊しているときこそ
至宝の時ではあるんですが、
しかしやっぱり
この感動を分かち合える友も
ほしいものです。
よくばりだねえー。でも、
誰かいないかなー。
5 「ひとりじゃないよ」
今日はうちのおばあちゃんが倒れ、
救急車で運ばれました。
色々検査したら、
脳貧血でした。点滴をして帰ってきました。
一時意識がなかったので心配しましたが、
人間そう簡単には死なない。
一日そのことでつぶれ、
ヤレヤレ。
このところも宮沢賢治の事を書きましたが、
彼の作品を読み込むと、その裏にある
孤独な、そして繊細な、賢治が見え
本当に全身で駆け抜けて生きたんだなぁと
心がゆすぶられます。
彼の冬の作品に、
「水仙月の四日」という作品がありますが、
言葉と場面の美しさが比類なく、大好きで
私は冬になると、
いつも心の片隅にこの小作品を
持って歩いているような気がします。
「カシオピイア、
もう水仙が咲き出すぞ
おまえのガラスの水車
きっきとまわせ」
「アンドロメダ
あぜみの花がもう咲くぞ、
おまえのラムプのアルコオル、
しゅうしゅと噴かせ。」
このフレーズを読んだだけで胸が躍ります。
物語は雪を降らす雪和童子とその手下の雪狼
そして雪婆んご
それに
お使いに出た一人の子供。
もう読んで知っている方はいうまでもなく、
透き通るまで磨かれた言葉によって。
多分
人間の中には
どの人間の中にも
こういう美しいガラスのような世界があるのだろうけど
神様が賢治という異才の人間を遣わして
私達に手品のように
見せてくれたのかも知れないと
私は思います。
種田山頭火の
言葉を切って切って
本当にエッセンスの言葉だけで
情景がさっと目に広がるような俳句を
読んだときも同じように
人間の根源的な美しさを
神様から知らされたように思いました。
もっと切り込んだすごさは
尾崎放哉、
この人は、
神が選んだというより、
神に挑んだというほうがいいかもしれないが
すごい。
しかし、
賢治も三頭火も尾崎に比べ
幼子のようなやわらかくて、
弱弱しいとこらがあり
その分、ファンタジックで私は好きです。
冬になるとこの二人がさ迷うさまが
自分の心のさ迷いと重なって
切なくも、しかし、自分の邪気がどんどん
きれいになっていくのを感じます。
独りよがりですかねえ。
二人の天才の後姿が
イツモ私と一緒に歩いているようで
ちょっと心がいい気分にさせてもらえる。
一人じゃないよってネッ。
こういう私も変ですね。
まあイイヤ。では又。
end