「物」の本質・・・・! |
がんばって運転して帰ってきました。ヤレヤレ
それでも今回は千葉で面白い人たちに出会い
気力が蔓延して気持ちがいいです。
帰るみちすがら、
つくずく物を売る時代は終わりだなあーと感じました。
日本人はたくさんの物質に囲まれ
便利さを享受し
腹はめいっぱいふくれて・・・。
でもそれは量やカズのはなしでねー、
本当に優れた人間の鋭気や
深い内面が刻印されている
そういう人間というものにに対峙した文化は
置いていかれたように思います。
「物」の本質は人間の心の投影で、
「物」とは、実は人間の内面(心の中)に
切り込んで来るものです。
だから優れた良い「物」を手にした時に人は感動し
喜び、
自分の期待に反するものには
がっかりしてしまいます。
単に人間の欲望を満たす・・と言うことが
「物」ではないことは、
これほど
豊かになっても
日本人が幸福感に満ち溢れてはいない。
私はギャラリストとして
いつも
物の奥に極められていく世界を
見ています。
絵を描くこと
音楽を奏すること
ソシテ物を造るその奥にある
その人間の
煌く世界・・・。
それはエネルギーの爆発や透過であったり、
或いは封印された自我の悲しみや怨念であったり、
さまざまに「生きる」事
を通して繰り広げられる、
「人間の美しさ・・・」だと
思っています。
千葉で、
和とじの本を手造りしている作家の方に
会いました。
文字の美しさ、
言葉の美しさ
言葉に牽かれた挿絵の
美しさ・・。
ソシテ
和とじされた
装丁のたたずまい、
その奥に
ひっそりと日本の中で
息づき、
継がれてきた
幽かな日本人の”
美への意識”を
かんじます。
物と言うものの本質は
「消費」ではないと
私は思っています。
「もの」をとおして私たちは
喜び嘆き
ときめき
元気になり
自分の影をかんじ
じぶんの広がりを感じる、
そういう人間の心の奥行きを
売りたいなあー・・と
思います。
室町時代の
戦乱の京都で
骨肉の人間の修羅が繰り返された中で
あの銀閣寺が生まれたように、
生きることがかげろうのように
薄らぎゆれるなかでこそ
確かなもの
ゆるぎないもの
ソシテゆるぎない
自分の存在のリアリティーを
うつしだす鏡としての
「物」。
「物」を媒体にした関係。
今、物でもみくしゃになり、
疲れはてた日本人の心を
もう一度
「物」を売ることの本質を通して
元気にできたらなーと
思います。
それはお金と言う「物」の
使い方ということにも
つながります。
ちょっと極論ですが
まあそんなトコです。
以下は参考までに付けておきます
〇足利義政と銀閣寺について
銀閣寺を建てた将軍足利義政は
8歳のときに将軍に就任しますが
ほとんどお飾り状態の将軍で
側近や妻のドロドロとした権力争いの明け暮れの中で、
自分を喪失していきました。
政治には眼もくれず女や酒に耽溺していました。
当時の世のなかは、
飢饉と戦乱に
巷に死人が溢れ、
地獄絵図のようだった中で
それを救済することもなく、
義政はひき篭ってしまいました。
おそらく絶望と無力感の中で
彼にはどうすることもできない現実を
見ないように生きていたかも
知れません。
義政については、
無能の将軍であり、、
11年にわたっての内乱、
応仁の乱を人事のように放置して、しかも、
乱後5年目にあの銀閣健設の工事を始め
湯水のように財政を使い尽くした、
ばか将軍のように評されています。が
その一方で
日本の文化のキソである書院造や
庭園、茶道や華道などの礎を作った人物として
評価されています。
京都についた日に
銀閣寺を見に行きました。
権勢欲の象徴のような金閣寺に比べて、
入り口からして
全くの個人宅のような低い門をはいると、
池を前に古い木造りの銀閣が、
楚々として立っていました。
近寄ると本当にモウ
ボロの木造の家で、
たしかに屋根の稜線や全体の形は
金閣寺を踏襲していますが、
問題にならないくらい
こちらのほうが質素です。
とりあえず順路に沿って
庭を巡り、
そばの小山を登っていきました。・・らね。
小山の中腹から見る、
遠くに京都の町を背景にした
銀閣が・・・なんとも言えず
美しい・・のです。
こげ茶色の小さな銀閣が
山の緑に埋もれるように立っていて、
風景と溶け合って
本当に無欲でで立っていて・・・・。
うつくしいなあー!
誇らず、気取らず、
水辺の葦のように静かに風と木々中に
佇んでいる
銀閣・・。
ステキでした。
ものすごく洗練された美しさを感じました。
義政が座禅に使った部屋があります。
それは「心空殿」と呼ばれる部屋で
義政が生きていた頃は
一切なにもない「から」の部屋で
それは禅の「心空、及第して帰る。」という
「心を空にしておくことこそ、
一切の発見の基礎である」という思想に基づいて作った物だそうです。
又彼の晩年の居室「同仁斎」という部屋は
四畳半のちいさな書院造で
違い棚に文房具を入れて過ごしたという。
将軍としてはあまりに小さく簡素な部屋なんだそうです。
それとこの同仁斎という部屋のいわれは、
中国の古言「すべて生あるものは等しく慈しむ」という
事からつけられたもので、
義政が自分の芸術観や学問観を共有できるものは
身分を問わず重用した思想を表している。
実際彼の庭を作ったのは
河原者といわれる
いわゆる河原乞食同様の
庭師、善阿弥やその配下の者たちであり、
文化のカオスが
既成の文化や洗練されたものではなく、
市民社会からはみ出した自由な賎民たちの中にこそ
その息吹があることを
知っていた。
文化の根源はいつも、
もっとも貧しく、
もっとも卑しく猥雑な中から
原始的なエネルギーを伴って
うまれてきます。
だからこそ、
そこ抜けに自由で奔放な原石が
生まれるのです。
そのことを知っているだけでも、
只者ではないと、
私は思うのですが、
義政の顔を見たとき、
いわゆる軟弱者の放蕩将軍の顔ではなく、
内向的ではあるが、
芯の所に一刻の意志を見る思いが
しました。
おそらく権力を巡って、
欲にまみれた争いの真っ只中で、
人間の浅ましい姿を見続けたであろう義政が
絶望しながらも、自分を建て直し
自己を維持し、喪失させないために
その内面で問い続け、
何を捨て、何を拾う・・という自己選択の結果が
あの銀閣に象徴される
世界だったと
わたしはおもいます。
外界から引きこもり、
自己を閉ざして守ったのは、
脆弱で壊れそうな自分・・。
その感性と世界観が
鎌倉文化で生まれ
東山文化の骨格となった「幽玄」の世界として!
おぼろげに見え隠れする侘びしく
悲しみを伴った深い奥行きの美しさ・・として結晶し
義政はそれを具現化していった。

食物にしても小麦粉の輸入を迫り、今の日本を作り上げていきました。
郊外に出れば、何処の県でも同じような建物お店が乱立して蔓延り本質の無い物が商売道具化して、本来の日本人の本質まで奪う経済システムになってしまいました。2つの大陸に飲み込まれていく日本が将来どうなるのか、危惧する今日です。昔の人は良く言ったものです、安物買いの銭失い。現在は親の家庭内の教育が出来ておらず、学力、食育を放棄してしまった馬鹿親が多い中、せめて自分の子供だけは責任を持って育てたいと思います。