さびしさと向きあって・・・。 |
昨日も寝入りながら
いろいろとアイディアや言葉が浮かんできたのに、
いいや、明日思い出して書こう・・と
寝てしまって朝になったら
忘れてました・・。
寝る前に読みかけた本に対して
むらむらと反論が浮かんできたんです。
それは「芸術のグランドデザイン」という本で、
最初の数ページを読んだだけなんですが、
いわゆる
拒絶反応が出てきました。
全部読んでいないので
この本の内容に関しては
触れません・・が
常日頃・・芸術というキーワードで
感じていること
考えていることを書きます。
なぜ前出の本に対して
拒否感が湧いたかというと
著者の前提が
いわゆる下垂がた美術館アートだからです。
大きな箱や大規な催し物会場
(トリエンナーレ・ビエンナーレとか町おこしとか・・・の)で
客を集め・・・云々という
既成アートの観念から抜けていない・・・。
ほんとうにうんざりするんだけど
日本のアート関係者の頭は官僚的発想から
抜け出られない・・・。いつも、
上から何かを起していくという
視点でサー…ムカッ。
このブログでも何回も書いたけど
文化はというのは最下層から
或いは市民社会の外側の棄民から・・・
人間がいきる
スレスレのところから
ひとつの必然を伴いながら
まさに
蛆虫のように(汚い表現でスミマセン・・が・)
”湧いてくる”
んです。
音楽の起源もそうですし
前に書いた
ブルースの起源も・・・ね。
お上が用意した”上から”じゃあないですヨ・・。
IT社会の到来は
これからの人間社会にとって
大きな人間の転換期だということは
何度も何度も書きまいした。
それと伴に
人間が
集団から個人に
バラけていく時代がはじまっています。
特に日本は集団幻想の国ですが
それがひび割れ
壊れそうなのが
今の現実でしょう・。
モウ
集団幻想では維持しきれなくなって、
個人の内面がさまよい
ソシテ
個々人の中での自分が
いよいよ先鋭化していく。
集団及び他者との
違和や断絶が進化していき
逆にその過程を通らなければ
辿り着けない未来は
確実に
遠くに輝いている・・・。
辛くても苦しくても
自分を掘っていかないと
そこにいけない・・。
それが
IT社会の遠謀に見える風景ですし
今までの学問、科学がさらに
人間の解明を進めるでしょう。
今はまだそのとばくちに入ったばかりです。
(人間の解明が進むと
私たちは衝撃的な孤独を
受け入れなくてはならなくなるかも・・・!
コレは私の予想です・・が)
そのことをいちばんよく感じ、
深く知っているのがアーティスト達で
その違和や断絶の重さから
命ぎりぎりまで生きて表現して
もがいているのが”芸術”です。
それはたった一人の
誰にも理解されない
孤独な世界です。
前も崖
後ろもが崖っぷち
でも
よーく眼を凝らしてみると
遠くに明かりが見えてくる。
そういう作業をしている
人間は
決して
大きな箱物や
賑やかしい催しもの場には
近寄らない、
近寄れない・・・。
時代の暗がりを見て
時代のにおいを嗅ぎ取って
その底辺にもぞもぞ蠢いている
そこに
焦点を当ててなくちゃー・・・!
そこからどうするか・・・でしょう。
11月16日から12月24日まで、
千葉の佐倉市美術館で
「さびしさと向き合って」という
美術展が始まります。
そこに
私(ギャラリー伝心柱)のコレクションから
正木隆さんの作品をお貸ししました。
他にも
・石田徹也・田畑あきら子・菊池怜司・成瀬麻紀子・・という作家の
作品が展示されるそうです。
私が知っているには
正木隆・石田徹也の両名で
二人とも若くして亡くなりました。
いい作品です。
よかったら
見てください。
こういうことを書きながら
私自身小さな
ほんとうに砂の中の砂粒のような
何かを
起したいと今
模索中です。
以下はこのブログで書いた正木隆氏についての
記事です。
○久しぶりに吠えました。
○芸術の仕事
お上が押し付けてきたことが成功しないと言うのは、人口4万人弱の我が町でも同じです。地域住民から湧き出たイベントや企画は盛り上がりますもの。
しかしまた、「群れになる」ということは、人間が弱体化する第一歩で、孤独と向き合える大人になれなければ、真実の友達もできないと思います。
伝心柱さん、私は今、49歳ですが、あなたに巡り会えて、近未来である50代が楽しみになりました。
50にして天命をしる・・・。楽しみです。
実はね、再就職した同年代の友人たちが、ことごとく欝、引きこもりになって。それ自体は、とても意味や意義のあることだと思います。人生の前半、辛いことや納得いかないことがあっても、カラ元気で乗り切ってきた彼女たちでしたから・・・。本当の元気を手に入れるために、いま、自分と向き合うしかないのかもしれませんね。