荒涼たる風景・・・から! |
気分が塞がってくることがある。
凡庸な日常性の断層の中に潜んでいる絶望が
地表に現れ
乾いた砂に水がしみこむように
気分を支配していく。
若き日に高橋たか子の小説のなかにも
同様の世界を見て
一時は夢中でよんだ。
最近読んだ彼女の日記の中に
私の洗礼の導きの師である
メキシコ人のシスターと彼女が
懇意であったことが書かれてあり
その偶然に
驚いた。
古の哲人たちや
宗教家が導き出した思想は
こういう断層の淵を人間が延々と
生きのびてきた証のような気がする。
悩める民衆の前に立った仏陀もイエスも
その本質においては
人間の関係性の原理を説こうとしたように
思います。
母性原理が強い日本では
イエスについては
”愛”の世界が強調されすぎているように
思いますが
私自身は
イエスの本質は
父性原理の”赦しと和解”という
人間関係の原理のように思います。
荒涼たる孤立感の中で
救いはひとつ
自分の意識が醒めていく事です。
意識は醒めながら現実の実相を
受け入れていく。
そういう
不連続なる連続の断層の出現は
自分が堕ちながらも
一方で神の手にすくわれるという
不合理があり、
つくづくと人間の存在の不可思議さに
気づかされます。
不思議なものです。
今日は見たくないけど
見なくてはならない
自分の世界のことを書きました。
自分が立っている崖の危うさや
見通しの厳しさ
未知なる不安・・・を。
ごまかすことなく・・・ね。
しかし
今にも絶望に落ちそうな人間が
かろうじて
生き延びていく力強い姿も
何度も目撃しましたから、
ほんとうは
人間
不可思議でも
たくましい
生き物かもしれません。
おそらく
そうだと
思います。

