中国への思い・・・! |
私が始めて中国を旅行したのが
確か22年くらいまえだと思う。
ちょうど自由市場が入って間もない頃で
マクドナルドやコカコーラが
中国で販売されはじめた頃だった。
自由市場にはたくさんのテントが並び
大変な賑わいで
みんな顔が生き生きしていて
わたしも
ワクワクしましたよ。
30元でピンクの絹のブラウスを買いました。
いまもまだそれを時々着ています。
北京空港は
収容所か隔離病院か・・と思うような
灰色のうすぐらーい建物で
苦虫を噛み潰したような役人が
ニコリともせず
重々しく入国手続きをやってくれたと思う。
街はまだまだのどかで
茶色のレンガを積み重ねた古い家が立ち並び
路上にはトロリーバスや黄色いタクシーやがたぴしゃの
自動車の間ぬって自転車の群団が
走ってた。
信号があっても
人々は信号などお構いなく
路上を横切り
道もがたぴぴしゃした石の道路だったと
覚えている。
とにかく自動車のクラクションが騒がしく
人が着ている洋服も化繊の
ピラピラしたのだったと思う。
夜になると路上は
赤や黄色や緑が点滅する
あのクリスマスに使うような
豆球の伝電飾だらけになり、
路上には屋台がぎっしり並んでいた。
人々は焼きそばのようなものに
酢をかけて食べていて
わたしも食べたが
おいしいとはとてもいえない味だった。
朝も早くから
自動車のクラクションが鳴って目が覚め
窓から外を覗くともう
路上に朝ごはんを食べさせる屋台が並び、
人々がおかゆらしきものを食べている。
時間がたつと、それらの屋台がすべて消えしまい
跡形もなくなるのだが
夕方になるとまた屋台がドッと並ぶ。
私達日本人の戦後まもなくの頃の風景に
スコシ似ていて
路上で商売をする散髪屋さんとか
ロバだか
馬だかが引いてる荷車に
白菜やタドンがたくさん載っていたり
アヒルやニワトリの首を絞めたものが
そのままの荷台で売られていたり
していた。
何となくのどかで
懐かしい風景でもありました。
日本人のように
乗り物に乗るときや
観光のチケットを買う時に”ならぶ”という
習慣がないため
ドットと押し寄せて早い者勝ちという
パワー勝負の国柄で
人々はとてもたくましく
まあたくましいから
お金なども油断すると
おつりなどは
すぐごまかされたりしましたねえー。
万里の長城を見たあと
みやげ物が売っている露天で
子供用チャイナ帽をかいました。
私が出した50元をさっと
自分のお尻のしたに隠して、
おつりをごまかそうとしました。
私が日本語で怒鳴ると
今オマエさんが出したのは10元だとト言う風に
10元を見せたので
”ナニ言ってのさー!今ケツの下に50元隠したのを
出しなさい・・”とまくし立てましたら
ま。まーという風に
お尻の下から50元出して
悪びれもせずお釣りをくれました。
アッケラカン・・・とね(笑い)
一緒に行った友達は同じように
ごまかされたのですが、
彼女や噛み付きもせず
そのままがまんしてしまい、
もう二度と中国にはいかない・・とカンカンでした。
でもねえ
やられたら、やりかえさないと
あの国では
民衆はいつもそういう風に生きないと
生きてコレナカッたのだとおもいますよ。
だって民衆は国家から守られたことがないんだもの。
民衆はみんな自力で生き延びてきて
日本みたいにのほほーんとなんかしてられない・・。
民衆が権力にいじめられて
その中で生きてきた民ですからねー。
私はたくましいなあーと
思います。
あの時から
約四分の一世紀がたちましたけど
いまの中国はどうなのでしょうか・・。
今回地震でたくさんの被害が出て
国家は彼らをどう救うのでしょうか・・?
家族を失い
家を失い
職をうしなった人々に
是非国家が
何らかの救いの手を
さしのべてあげてほしいと
願っています。
オリンピックよりそちらのほうが
優先だと私は思いますが・・。
心配です。
その後仕事で数回5年ほど前から大連や上海といった経済都市に行きましたが、経済は発展したものの変わらぬきな臭さがありました。
何より、10億人の人口を抱えているといっても、人の命が軽すぎる。
経済の発展と共に国家としても成熟して欲しいと心から願います。
私の会社には、中国人の社員も沢山います。
彼らの多くは海外で教育を受けていて、考え方も他の人とあまり変わりません。もちろん、中国人であるということに、彼らは強く誇りを持っています。こういった国際市場での個々人の交わりを通じて、中国が真の国際大国になってくれる日が来ることを希望しています。