黒澤明監督の成功禁止令! |
黒澤明監督には成功禁止令がかかっているなあー・・と思ったので
今日オリオン書房に行き
黒沢明監督に関する本をかって来ました。
もしかしたら
気になった人がいるかもしれないので
ちょっと書きます。
たまたまこの「どですかでん」を見る前に
その前作の「赤ひげ」を見ていたので
あまりに変わったその人間観というか
人間描写に驚きました。
赤ひげの場合は
ある種の娯楽的ヒューマニズムみたいなものが
流れており、大衆はいわゆる「映画」として
それが偽善的であろうが、くさかろうが
安心して涙を流し、自分の胸に詰っているものを
カタルシスします。
そして自分の気持ちを建て直し明日への元気を取り戻す。
しかし「どですかでん」には
そういう偽善性が剥ぎ取られて
むき出しの人間の暗黒や醜さが晒されていきます。
そういったリアリズムを
今までのクロサワ映画は追求して来たのかなあー?
たとえば志村喬主演の「生きる」なんて作品は
私にはヒューマニズム甘すぎてチャチイなーという
感想を持っていました。
でもクロサワ映画はそれでもいい・・と思っていました。
なぜなら
楽しいんです。
社会派の虚無や貧乏や社会的抑圧を
これでもか、これでもか・・と押し付けてくる作品より
見たあとに元気がでました。しかし
「どですかでん」は
息がつまり、頭が痛くなり
父ちゃんが見てなければ消したと思います。
もし
クロサワ監督が
「赤ひげ」のような作品を
よーしこれでよし・・と
全肯定できていれば
「どですかでん」も
きっと楽しかったと思います。
また監督が
こんなどん底をいきていいる人間のすざましく
貧困で醜い世界だけど・・どーダッ!という
作品が生まれたかもしれません。
どん底に生きる人間の迫力が噴出したかもしれません。
それにあのセットの芸術性が
もっと作品のエネルギーを加速したでしょう。
しかし
「どですかでん」は
どん底にはいつくばって生きる人間の
醜さやそして虚偽を剥ぎ取った人間の
なまなましい本性を描いていも
どうしてもそこに
クロサワの実存的なエネルギーというか
クロサワ自身のそういうどん底をつきぬけようという
エネルギーが欠落しているように思います。
そして逆に
人間を暴いてみせる
人間の安っぽいヒューマニズムを
剥ぎ取ってみせる・・というふうな
気負いが
ひとつひとつのシーンを冗長にして
私はそれに退屈しました。
成功禁止令というのは
成功する、
あるいは成功しそうになると
それを危機的に感じ積み木崩しをやります。
クロサワ監督の場合、
「七人の侍」や「隠し砦のさん悪人」「椿三十郎」や
「天国と地獄」
そして「赤ひげ」などが
彼の等身大の真骨頂の作品で
それらの最高と栄光を大いに彼が誇り
自分自身の投影として大肯定してなら
そういう禁止令は作動しなかったと思います。
どこかで
自分を肯定できず
逆に自分の安易さを自虐するような
そういうコンプレックスが
あったのかも
しれません。
でも
ほんとうに人間の生きる辛さを
あるいは、人間の暗黒や醜さを大衆が知っているから
偽善でも何でも
幻想を見ようとするんです。
夢を見ようとするんです。
現実が辛いから
その現実をかき消してくれるような
人間のヒューマニズムを信じたくなるのです。
社会派と称する人たちの
人間の仮面を剥ぎ取るような映画には
絶えずそのゴウマンさがつきまといます。
人間を暴くには常に暴かれる人間は下位に
おかれます。
黒澤明監督は
名監督であるにもかかわらず、
いつも自分を許せず、
そういう葛藤の中にいたかもしれませんね。
でもあの六ちゃんの家の
壁じゅうに描かれた電車の絵のセットの美しいこと、
そして
ゴミ山に立つバラックの極限的な貧しさの家々が
夕焼けに映えてなんとも美しいこと・・・。
崩れそうに屹立している
それでも立っていることの
芸術的な美しさこそ
彼がなにを愛しているか
如実に語っていました。
人間はほんとうにタイヘン!
他人ににはわからない
その人だけの苦しみをもって
あがいていきているですね。
まあそういうもんだと
おもいます。
まあ失敗を人間はするもんで、
それが人間らしいかもしれません。

