冬夜長し・・・! |
どうしても良寛の書が見たくて
一人で出雲崎に行きました。
行った季節は何時なのかすら
おぼえていません。
そのときの風景すら思い出せないのです。
しかし
展示されていた写経の字だけは、
はっきり記憶に残っています。
それまで私はほとんど「書」というものが
解かりませんでした。
今でも解からないとおもいますが、
良寛の写経の字の、
吉本隆明流にいえば、
渋滞のない・字。
私流に言えば
意識の句、および節の点がない・・・。
つまり書を書いている途中に
なんらかの意識が入るとそこに
墨の塊や跳ね、止めの変化がおきて、
字の流れに抑揚がついてしまいます。
しかし写経の字は
吉本さんが言うとおり
流れっぱなしの字になっています。
おそらく頭が空白の状態
想念が一切ない状態で
ひたすら写経をしていたのではないかと
思います。
国上山中の小さなボロ庵の中で
一切のものを寄せ付けず、
自己に引きこもり
そして写経という自己救済を
していたのではないかと思います。
ちょっと飛躍しますが、
キリスト教聖書の中のイザヤ書40の中に
以下のような言葉があります。
すべての谷は埋め立てられ
すべての山や丘は低くなる
盛り上がった地は平地に
険しい地は平野となる。
神によって
すべてが等しい高さに整えられるという
神のみ業を言っているのですが、
おそらく自分を救済するということは
このようにアリトアラユル事が
つまり険しいことも
足りないことも
すべてが等しく、
人生という一本の線上に均されていく・・と
いうことではないかと
思います。
神の手の中に入ったものは
みな等しくその愛のなかで超越されていく・・・。
旨く言えませんが
こんなようなことかと:::。
あの渋滞のない「字」をみたときの衝撃は
多分こういうことだったように
思います。
そのときに、なぜか自分が救われたように
胸に熱いものが溢れて来ましたから・・。
また冬が来て良寛を思い出しました。
冬という閉ざされた空間と時間の中で
良寛は一人庵にこもり
囲炉裏の火と月明かりのなか、
沈黙が一切を制する至高の美しさの中に
座します。
一切を捨てた者にのみ与えられる
神の掌かもしれませんね。
老朽 夢覚め易し
覚めきたりて 空堂に在り
堂上 一蓋の燈
かかげ尽くして
冬夜長し
歳をとって夢が覚めやすい
覚めてみれば ひっそりとしたお堂に自分がいる
お堂の中には一皿の灯りがあるが
その芯くを掻きたてても、かきたてても
なかなか冬の夜が明けない
この漢詩はわたしの中では
放哉の
「咳をしても ひとり」という句に
連動していく。
すごいねえー。
凄いけど
なんだか救われる気が
します。