言葉はドストライクには伝わらない・・・! |
かなり問題があるのだろうとは
思いますが、
わたしが伝えたい内容と
相手が受けとっている内容に
かなりのズレや開きがあるということを
歳を経れば経るほど痛切に感じています。
それほど、
他人の言葉を理解、了解することは
むずかしく、
自分の言葉もその真意を
ずばりストライクに受け取ってもらうことも
大変むずかしいです。
それほどわたし達は
他人のことを
自己流に解釈して
わかった気になっているのであり、
また自分のことも
他人に理解や認知がされないことも
ごくごくあたりまえのことなのです。
こういうことが解かってくると
だんだん絶望的になりますが
逆に
人間とはそういうもんなんだ・・と
あきらめが付いてくると
それでも何とか生きてやろう・・と
私はそう思って生きています。
恐ろしいのは
そういう人間洞察や考察が
まったく欠けたままで
人生をやり過ごしてきた中高年の人たちで
年齢と同時に孤独も孤立も
増して行くばかりなのに
それを受け入れらない。
昨日も自宅前の駐車をめぐって
隣人に殺された中年の男性の
ニュースを見ていて、
その瑣末な争いの末の事件に
ため息がでます。
いい年をして
殺したほうの男のギラギラした
未熟な自我が
なんとも愚かしい事です。
人間は絶えず他人と作る”世界”のなかで
生きており、
他人がいないと”世界”は成立しない。
その”世界”をどう作るかで
人生を浪費してしまうほど
それは大変なことですが
そのときとても有効なのが
”あきらめる”ということで
こういうことは
若い人の希望に冷や水をかけるように思われがちですが
そうことではアリマセン。
何かを叶える為には
何かを捨てていかないと
前へ進めない・・・。
瑣末な事で終始して、
人生を終わるのもいいけれど
でも自分の希望や願いを叶えたかたかったら
本質的な優先順位をしっかり見極めて
あきらめたほうがいいことは
さっさと手放すことです。
手放していくと
どんどん視界が広くなり
そして自分が自由で自在になっていきます。
他人との距離や軋轢のなかで
エネルギーを消失させず
どうでもいいことは
譲ってしまうんです。
ぽーんと
ほうってしまうんです。
気持ちいいですよ。
そういうことが
ごくあたりまえの処世のわざとして
極意として、
後進につたえて行くことができる
そういう成熟した社会をつくらねばなあーと
つくづく
思いました。