外は良寛・・・。 |
朝から本を読んではウトウトを繰り返しています。
わたしの中にはいつも
自分が覚めて(醒めて、冷めて)いられたらいいなあーという
願望があります。
ひとつは結核で死ぬ寸前から奇跡的に生き返った父が
幼いわたしを連れ、
自分の求道を求めて
お寺や神社や民間の宗教教会などを
回り歩いていたからだろう・・と思います。
父自身が命拾いした事に対する
人間の脆弱さを超える何かを求めていたのであろうと
思います。
父に手をひかれてそういう場所へ行ったことがうっすらと
記憶にあります。
そのせいか
どういうわけか小さい時から
なんとなく虚無感があり
はやくおばあさんになりたいなー・・という願望と
(おばあさんになって悟りをえたいという願望です。)
厭世的な感覚が付き纏って
いつも、いつも自分の生き方や、在り方ばかりを
考えて生きてきたように思います。
もうひとつ考えられることは
わたしの感情の起伏の激しさです。
わたしの感情は瞬間湯沸かし器のごとく
まっすぐに一途に上っていきます。
そうなるともう、
自分では手がつけられません。
どうしたらこの感情を消すことができるか
そういうことばかり考えていましたから、
その結果としてじぶんが
路傍の石の如くあったらドンナにいいだろうと
おもっていました。
誰からも振り返られなくとも
ただ路上にころがる石如く無価値に自分のことを
思えたら・・。
いかなることにも感情がうごかされず、
醒めて、冷めて、
たち起こるさまざまな表層を
静かにながめていられたら・・ドンナに幸せだろうと
思っていました。まさに
現実の中で七転八倒する自分とまったくの逆の位相に存する
姿です。
現実にのたうちまわるじぶんの対極に
いつも垣間見ていた姿です。
若い頃友人にうっかり
路傍の石の如く存在すればいいんじゃない・・と言ったところ
カンカンに怒られました(笑い)
とんでもない、
自分はそんな石ころのような人間じゃない・・、
ばかにするな・・という訳です。
ああー
普通はそういう感覚なのだなーとそのときはじめて
解かりました。
今、もう頭が白くなり、
顔に皺や斑点ができてきて
じぶんがあの若いときの憧れに近くなりました。
そして、本当に少しずつですが
醒める(冷める)ことが出来るようになりました。
わたしの周りにも
じぶんは冷めているから
貴女のように感情がないのよ・・という人もいますが
その人たちを見ていると
自分の感情を押し殺している人がほとんどで、
私はそういう人たちの奥にこそ
たぎる様な激しい感情を見ます。
人間になぜ感情があるのか
感情は時としてとても厄介で
わたし達を疲れさせます。でも
感情があるから
生命が萌えエネルギーがほとばしり
そして人生が彩られ立体的になります。
命の炎である感情
今は感情との悪戦苦闘がなかったら
とてもココまでは辿り着けなかったと
思います。
今日もまた良寛に関する本を読んでいます。
題名は「外は良寛」
いい題ですネエ・・・。
著者は松岡正剛氏
故郷五合庵に辿りついて
外的世界と自分の内面世界の境目がほどけて
自由に感覚が行き来する良寛の流れるような感情。
有機(存在)と無機(死)が混在となった
美しい詩の風景を謳います。
溢れ出る感情がやがて鎮まった時に出会う、
静まりかえった世界。
彼のずーっとズーッとはるかな後ろを
ささやかに
ころびながら
追いかけさせて頂いている
小さな弱い
わたしです。