からだの孤独・・・! |
約三週間にわたって、こらえては噴出す・・という怒りに
もうからだも心も疲れはてた。
もともとからだと心(意識)は、
ねじれては同調するという
矛盾と一体化を交互にはかりながら
進行(成長)していく。
意識は常に過去、現在。未来を包括しながら
一瞬一瞬に変化していくが、
からだは現状を維持することのほうに比重を置くので、
そこにねじれが起きる。
からだは生命を維持する肉体として、
心肺や体温や血圧など
常に一定の安定を保とうとするから、
急激な変化に対してはどうしても拒否が起こる。
だからいったん出来上がってしまった"人”は
なかなか変われない
からだが変わることを
受け入れられないのである。
(頑固とか意地というものの原因)
それに比べ
意識は自分と自分以外の外的世界とを
コーディネイトしなくてはならないため
常に革新的というか、未知に対して挑戦する。
このからだと意識のバランスが崩れたとき
猛烈なからだの反撃が起こる。
それはいくら頭で冷静に考え処置しようとしても
からだ(感情)が言うことをきかない。
特に意識がからだに言って聞かせ、
なだめながら現実に対処をしているとき(がまんをさせている)
そのがまんが飽和状態になり、沸点に達したとき
今度はからだが意識をのっとり始める。
今回はなだめてもなだめても、
私のからだが言うことを聞かなかった。
なんとか治めたと思っても、
しばらくするとフラッシュバックしてくる。
それくらい私のからだは傷んでいたと
思う。
(傷むといっても病気とは違います。)
このことの大きな原因は
からだの孤独にある。
昨日は映画「送りびと」がオスカーをとった。
私はその映画をみていないが、その映画に対する
「人間は生まれてきたときも、死んだときも
人の手を借りる・・」というコメントを見た。
人間はこの世に誕生した時から常に
人の手と人の体温のぬくもりを
必要とする。
親の体温のぬくもりを感じながら
赤ん坊は脊髄はじめ器官が成長していく。
それは体温をよりどころにしながら
安心し、安定する中で細胞が柔らかく瑞瑞しく
成長していく。
母親の胎内から出て外気の冷たさに触れ
冷えるからだを母親の体温で温めながら
やがてのひとり立ちへと向けて
からだと心が準備されていく。
そういう生命の生(温かさ)と
死(冷たさの)の循環の中を
生きながらからだが自立していく。
それには人間のお互いの関係性が大変重要で
お互いが温度を確かめられる関係が
鍵を持つ。
親と子、夫婦の間で常にお互いが自分の体温で
相手を抱擁しなければ
からだはドンドン孤立し、冷えて固くなり
固くなったからだは、意識とのバランスを崩し
心のバランスを崩すと人間はどんどん
被害者意識が募り
妬みやそねみ、そして自己憐憫の罠にはまっていく。
特に子供達の心のゆがみに対しては
親が子供を抱きしめ続けるくらい
からだで温度を伝える必要があります。
怒りの場合はまだ、からだが相手を信頼し
自分の痛みを伝えようとする
からだの暴走であるが、
怒ることをあきらめたり、封印したりすると
からだを意識がのっとり
それは頭脳プレーという仕返しになる。
自分を影のように潜め
相手に気取られないように仕掛けていく。
これはもう
からだが反応しなくなり、
感性が固形燃料のように冷えて固まっていく。
頭は明晰になる(偏った被害意識で)が
からだは意識に押さえ込まれて感情の通路ができなくなる。
怨念がひろがり、客観性が失われていく。
恐ろしいねえ。
温度をなくして”もの”化したからだは
他の人間をも、
”もの”のように扱ってしまい、
まるで”もの”のように傷つけたり
殺したりしてしまうことすら起きてきます。
人間らしい感情が枯渇してしまうのですねえ。
今世のなかに
誹謗中傷や関係のない人間に対する攻撃が多いのは
その裏にたくさんの温められていないからだ、
孤独なからだがあるからだと
思います。
養老孟司さんの本で
これからはからだの戦略が必要だと書いてあったが
文明が進行するとどうしても
人間間の距離が広がっていく。
人間の孤独が深まっていく。
自分の老いを
自分だけで引き受けようとしたり
自分の孤独を
夫及びその社会的責任である会社の
維持と繁栄のために犠牲にしたり
自分のからだの小さな願いすら
聞こうとしなかった自分たいする体の嘆きが
爆発しました。
私の魂の奥深くにいる小さな小さな
赤ん坊(インナーチャイルド)からまた教えられた強烈な
自分を取り戻す怒りでした。
怒りは時に暴走して手がつけられませんが、しかし
ズレてしまった自分の機軸を
もとに戻す生命の営みでもあります。
大切な、大切な魂のサインでもあります。
ほんとうに人間はなんて精緻にできているのかと
思います。まさに
神の掌の技です。

