ことばはね・・、寺山修司と金子光晴。 |
いつも思っている。
言葉とか絵とか音楽とか
それらはみんなその人間の姿を直裁に
写しだす。
他の人は知らないが
私はそれらと向かい合いながらいつもその奥に
それを作った人間の思いや匂いや影を見ている気がする。
それに同調したり、考え込んだりしていると
生きる・・という地平での不連続に繫がる点のようで、
孤独な私の魂が震える。
本屋で二冊の詩の本を買いました。
寺山修司と金子光晴のふたりの詩人です。
ひどく後ろ向きな寺山の言葉の中にときどき
ドキッとするような鋭く輝いている言葉がある。
ほんとうはね、
ちょっと私とは相容れない甘ったれのところもあって
もうこの本捨てようか・・とも思いましたが
でもいま少し手もとにおいています。
金子光晴は
戦争中に自分の息子が徴兵されるのを恐れ、
水風呂につけたり火鉢で木をいぶして吸わせたり
何とか喘息の発作らしいものを誘発して徴兵を忌避し
親子三人で山の中ににげる。
戦争に熱狂する日本国民のなかで
当時の極めて少数の人間の一人として
国家や戦争に対する
醒めきった目で生きていた詩人であるが、
私はどうしても彼の詩のなかに
救いがたい人間の世から逃げている、
逃げているが彼自身も自分を嫌悪し
ドロドロと底なし沼にはまり
救われていない、ような・・・輪廻をうろついている・・という
姿を見る。
読みながら
そのことに対する不快感が沸いてきた。
いわゆる日本人的な
出口を持とうとしない情緒である
ジメジメ感がある。
戦争中という時代のせいかもしれない。
逃げた金子を断罪するつもりはまったくないが、
そう思いながら浮かんできたのは
彼とは真逆に国家を信じ、戦争の正当性を信じて
徴兵され戦地に向かったわたしの父をはじめとする
日本の大衆とわかものたち。
どんな思いがあったのだろうか、
行くしかない・・と徴兵に応じ
戦争にいったのだろうか・・・?
私の思いは金子よりその国家の命に従っていった
人間達のほうになにか生きようとする意味での
共感がわく。
決して国家や戦争の犠牲になることがいいとは思わない。また
国家の犠牲になってはいけないし
戦争へのファシズムに乗せられてもイケナイ。しかし
きっと同じように戦争に行きたくないとか
徴兵をのがれたい・・という思いが胸の底にあった若者が
いたのではなかろうか。。。
山の中で息を潜めて
自分たち三人だけで生きていた金子たちより
どうにもならない現実で
死ぬかもしれないと解かっていても
行くしかないと行った若者のほうに
私の気持ちが揺すぶられる。
決してあってはならない戦争も徴兵も。。。
しかし
人として
思いを断ち切るということが
どれほど苦しく残酷であるかを
私ははかり知る時、
山中で息を潜めながらも
妻の浮気や
息子への溺愛を語る詩人に
どうしても共感できない。
そんな時代でも
あきらめて
戦争に行った大衆のほうに
私は生命力を感じます。
でも
そういう弱い自分をさらけ出すことも
詩人のしごとかもしれないね。
ことばは
恐ろしいくらいに
その人間を裸にしてしまう、
金子も、寺山もそのことを承知の上で
詩をかいたのでしょう。
すごいね。
この田下さんの考察も、すごいですね。
私はこれまで完全に寺山修司や金子光晴を支持するような生き方をしてきましたが、
最近は、どちら側の生き方も分かるなぁと。
分かるというか、受け容れられるというか、少し変わってきたと思います。
指定席をもたない私の立ち位置です。

