『弟子一人ももたず候ふ・・・。』 |
自分自身に向けて書きます。
腕の傷がまだ治らないため、
夜半に寝返りを打つと
ズキリと痛み、目が覚めます。
目が覚めた後、腕が疼きながらうとうとと
亡くなった母のことを考えました。
母はいつも受身で、依存が強く
しかしその反対に内面には強固なプライドが
ありました。
いわゆる扱いにくい部類の人間でしたが、
父に対しては無抵抗でした。
父は根は明るく単純で、
責任感の強い人間で
面倒みがよく
ほとんど腹にものをためない人でしたが、
しかしとても支配欲の強いわがままな一面が
ありました。
父が亡くなってから母を引き取りましたが
余りの依存症と取り越し苦労のひどさに
改めて彼女の人生を考えさせられました。
昨夜ふと、
もしかしたら、
母は父に
心理支配された人生だったかもしれない、と
思いかわいそうだったなーと
胸が熱くなりました。
六歳上の父に母はほとんど隷従するようで、
父は母の心の自立性を奪っており、
頭ごなしに母の意見を潰してたと
思います。
父は私たち子供に対しても
独裁的というか独善的というか
特にその逆鱗に触れた時の怖さは
私達子供にとって
尋常ではありませんでした。
大学の寮に入るまで
私の着る洋服、髪型そして
いっさいのおしゃれを許さず、
過剰に干渉され、
自分の鋳型にはめようとしました。
人間の深層心理や
カウンセリング理論を学び始め
その中でも私は、
自分のなかに確実に父からバトンされたであろう
他者へ対する支配欲をなんとか取り除こうと
意識的に努力したと思います。
特に私の家族、夫や子供達の心を
支配してはいけない!
彼らがダメになる・・という危機感からです。
関係が濃いぶん、
彼らの自立性に踏みこまないように
自分の欲求をいつも検閲する。
自分が産んだ子供でも
子供には子供の人格があり、
その自立性を尊重しなければ
ならない。
夫も同様に・・です。
でも、そのことは、決して容易なことでは
ありませんでした。
何度も辛い場面があり、
また孤独の自分を引き受けられず、
苦しんだこともしょっちゅうでした。そして
ふと気づいたら
知らないうちに
相手を自分の思うとおりに動かしたい・・という欲求に
駆られています。
そして相手が自分の思うとおりに動いたり、
指示に従ってくれると
安心する自分がいます。
いけませんねえー・・・。
父に心を支配されていた母は、
巧妙に周りから囲いこむような手練手管で
逆に父をコントロールしていたように思います。
そういう風にしか
相手と向き合うことができなかったのだと
思いますが、それもまた
良いこととは思えません。
人間はほんとうに難しいけど、
でも
たった一度の人生です。
それを他者から
支配されるなんて、悲しいですね。
もうずっと以前(2006年)のことですが
NHK心の時代のテキストを買いました。
山崎龍明さんの「歎異抄」を語る・・というテキストです。
その”テキスト下”の冒頭に
第七章『弟子一人ももたず候ふ』というのがあります。
歎異抄第六条の親鸞の言葉です。
ウトウトと母のことを考えながら
この言葉が浮かんできました。
龍明さんはこの言葉をこのように解せつしています。
「いのちを私物化する誤り」
人間は独占欲の強いものです。
すべてのものを所有しないと
納得がいかない。しかし
そのことから苦しみの連鎖がはじまり、
闇はいよいよ深くなる。
仏の教えからみると自分自身でさえ、
自分のものでないのに、まして
親をはじめ夫、妻、子供、友人までも
私物化しようとする。
親鸞は師とあがめられることを良しとせず、
ひとの上にたちたいという欲を捨て、
そういう煩悩に駆られる自分を
戒めたのではないか・・と書いてます。
私自身未熟で矛盾にみちた存在です。
しかし
昨夜、母のことを考えながら
なんとか自分の支配欲を脱したい、
人生の残りを
そこから
脱したいと
強く思いました。