2009年 10月 22日
加島祥造「タオ・老子」より・・・。 |
依然買っておいた加島祥造さんの「タオ・老子」の本を
読みはじめたら、
そのなかで、一昨日のブログで
※ポイントした「大いなるもの」について
私の思うところを書いてくれたような文がありましたので、
ご紹介します。
第25章「おおいなるもの」は帰ってくる。
タオは天と地のできる前からある。
その状態は
あらゆるものの混ざり合った混沌だ。
そこには
ほんとうの孤独と静寂に
満ちていて、すべてが
混ざり合い変化し続ける。
あらゆるところに行き渡り
すべてのものを産むのだから
大自然の母といっても良いかも知れぬ。
こんな混沌は名づけようもないから、
私は仮に”道・タオ"と呼ぶんだが、もし
この働きの特色はなにかと、訊かれれば
「おおいなるもの」と応えよう。
それは大きなものだから
遠くまで行く。
遠くまで行くから
帰ってくる。
このタオの偉大さを
受けついだ天は偉大なのだ。
その大地にいる人間だって
タオにつながる時は偉大なんだよ。
だってそのひとは
大地に従っていきるからだ。
大地は天に従っているし
天は道(タオ)に従い
道(タオはそれ自体。自らの動きであり、それこそ
最も大いなる自然といえるんだ
もとキリスト者の私は
自分のなかにある自分を超えた大きな力を
「神」或いは「主」と読んで祈りをしますが、
それは※でも書きましたように
自分の"意識”の範囲を超えた
『大いなるもの』という認識があります。
人間の意識は脳の働きの10%くらいかとおもっていたら
先日読んだ池谷裕二さんの本では
もっともっと少なくて、詳しい数字は忘れましたが(笑い)
人間は殆どを無意識の脳の反応の中でいきている。
私が"大いなるもの"といっているのは
そういう人間の意識を超えたところで
その人間が掴みとっている大きな世界・・。
それは常に前へ進もうとする
"生命現象”で
タオの詩の中に有るように
・常に満ちていて
・混ざり合い変化し続ける・・
・あらゆるところに行き渡り
すべてのものを産み
遠くまで行き、再び帰ってくる
という
わたしを超えた、私と言う現象・・・。
だからそこに繫がっていいると
ほぼ無意識の内に
私自身の進むべき道を
教えてくれる。或いは
起動をを示唆し
修正を教えてくれる。
そういう自分の働き・・だと思います。
さらに
第14章 形のない形だけの在るところ
五感でなんか確かめられないものこそ
ほんとうの実在なんだ。
微小すぎるものは
いくら見ようたって見えない。
あまりに幽かな音というのは
いくら聞こうたって聞えない。
滑らか過ぎる表面は
触ったってそれと感じない。
この三つのきわみは
微細であるだけに、互いに
融けあえる。この三つが一つに
融けあっている空間ー
それは無か空かにみえるけど
充実したもの
もっとすごい実在といえるわけだ。
ー中略ー
すべてが絶え間なく連続し、変化し、動いていて
やがてあの名のない領域に戻る。
これは形のない形だけの在るところ
無いものだけの在るところ、すべてが
捉えがたい抽象でできているとも言える。
そいつの後をついて行っても
背中はみえないし
前に廻ってみたって
顔つきなんか分らない。
どうやったら捕まえられるかって?
まあ、
今の自分のなかに
ばんぶつのなかに
タオが働いていると自覚することだ。それは
太古の太古のときから伝わってきている
と想像する。すると
道(タオ)の全体像が
現れえてくるかもしれない。
人間と言うのは
人間と言う現象で
私はまさに
こういうことだと
思います。
すべての応えは自分の中に在り。
自分を信頼し
エゴ(我)を叩いてなめし
欲望や感情を整理し
依存や甘えをやめ
善くも悪くもすべて
自分と言う立体を受け入れ
愛し慈しみ
本質で生きようとするときに
自分の中から
もっとも
適切な
答えが導かれると
思います。
私と言うのは実は抽象で
絶え間なく連続し、
変化し
動いている
わたくし・・と言う現象です。
善や悪や光や闇すべてを含みながら
変化していく”わたし”に
自分ににブレーキをかけず
自我に固着せず
柔軟に
そして
安心して
いききることだと
思います。
読みはじめたら、
そのなかで、一昨日のブログで
※ポイントした「大いなるもの」について
私の思うところを書いてくれたような文がありましたので、
ご紹介します。
第25章「おおいなるもの」は帰ってくる。
タオは天と地のできる前からある。
その状態は
あらゆるものの混ざり合った混沌だ。
そこには
ほんとうの孤独と静寂に
満ちていて、すべてが
混ざり合い変化し続ける。
あらゆるところに行き渡り
すべてのものを産むのだから
大自然の母といっても良いかも知れぬ。
こんな混沌は名づけようもないから、
私は仮に”道・タオ"と呼ぶんだが、もし
この働きの特色はなにかと、訊かれれば
「おおいなるもの」と応えよう。
それは大きなものだから
遠くまで行く。
遠くまで行くから
帰ってくる。
このタオの偉大さを
受けついだ天は偉大なのだ。
その大地にいる人間だって
タオにつながる時は偉大なんだよ。
だってそのひとは
大地に従っていきるからだ。
大地は天に従っているし
天は道(タオ)に従い
道(タオはそれ自体。自らの動きであり、それこそ
最も大いなる自然といえるんだ
もとキリスト者の私は
自分のなかにある自分を超えた大きな力を
「神」或いは「主」と読んで祈りをしますが、
それは※でも書きましたように
自分の"意識”の範囲を超えた
『大いなるもの』という認識があります。
人間の意識は脳の働きの10%くらいかとおもっていたら
先日読んだ池谷裕二さんの本では
もっともっと少なくて、詳しい数字は忘れましたが(笑い)
人間は殆どを無意識の脳の反応の中でいきている。
私が"大いなるもの"といっているのは
そういう人間の意識を超えたところで
その人間が掴みとっている大きな世界・・。
それは常に前へ進もうとする
"生命現象”で
タオの詩の中に有るように
・常に満ちていて
・混ざり合い変化し続ける・・
・あらゆるところに行き渡り
すべてのものを産み
遠くまで行き、再び帰ってくる
という
わたしを超えた、私と言う現象・・・。
だからそこに繫がっていいると
ほぼ無意識の内に
私自身の進むべき道を
教えてくれる。或いは
起動をを示唆し
修正を教えてくれる。
そういう自分の働き・・だと思います。
さらに
第14章 形のない形だけの在るところ
五感でなんか確かめられないものこそ
ほんとうの実在なんだ。
微小すぎるものは
いくら見ようたって見えない。
あまりに幽かな音というのは
いくら聞こうたって聞えない。
滑らか過ぎる表面は
触ったってそれと感じない。
この三つのきわみは
微細であるだけに、互いに
融けあえる。この三つが一つに
融けあっている空間ー
それは無か空かにみえるけど
充実したもの
もっとすごい実在といえるわけだ。
ー中略ー
すべてが絶え間なく連続し、変化し、動いていて
やがてあの名のない領域に戻る。
これは形のない形だけの在るところ
無いものだけの在るところ、すべてが
捉えがたい抽象でできているとも言える。
そいつの後をついて行っても
背中はみえないし
前に廻ってみたって
顔つきなんか分らない。
どうやったら捕まえられるかって?
まあ、
今の自分のなかに
ばんぶつのなかに
タオが働いていると自覚することだ。それは
太古の太古のときから伝わってきている
と想像する。すると
道(タオ)の全体像が
現れえてくるかもしれない。
人間と言うのは
人間と言う現象で
私はまさに
こういうことだと
思います。
すべての応えは自分の中に在り。
自分を信頼し
エゴ(我)を叩いてなめし
欲望や感情を整理し
依存や甘えをやめ
善くも悪くもすべて
自分と言う立体を受け入れ
愛し慈しみ
本質で生きようとするときに
自分の中から
もっとも
適切な
答えが導かれると
思います。
私と言うのは実は抽象で
絶え間なく連続し、
変化し
動いている
わたくし・・と言う現象です。
善や悪や光や闇すべてを含みながら
変化していく”わたし”に
自分ににブレーキをかけず
自我に固着せず
柔軟に
そして
安心して
いききることだと
思います。
by denshinbashira
| 2009-10-22 17:23
| 賢い生き方!
|
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