2009年 10月 26日
大きなものに繫がって・・・・! |
ワイエスの画集を見るたびに
私に起きる感興も、
また加島祥造さんの「老子」を読んでも
身体じゅうに染み渡る共感があり、
それは
自分だけが温め大切にしてきた世界でもあり
と同時におそらく、
多くの人の中にも共通にある
「人間」の真実として
抽象化された世界だと思います。
つまり人間は常に
自分の内側を生きており、
外側ではないんだなーと
思います。
例えばタマネギの茶色い皮の下に
何層も重なられた
瑞瑞しい白い果肉が在るように
表面の外的世界用の仮面の下には
私達の中に溜め込まれた
感性や感情や執着が
瑞瑞しくあり、
実はそこ、つまり
無意識の”そこ”に
ほんとうの自分がいるんだと
思います。
誰にも邪魔されることのない
静寂の空間で
始めて開かれるその自分と言う扉の奥には、
きっとまだ赤子のように
素直でたおやかな自分がいるとおもいます。
こびりついた垢やユガンダ思いに捉われない
懸命に生きるあなたや私の真実・・といいますか、
そういう人間の"核”みたいなものを
私は「大いなるもの」または
「おおいなる自分」と呼んでいます。
たとえば表面意識の自分が
事実を捻じ曲げて
それを真実と思い込もうとすると
「いや、ちがうだろう」と諭し
違和を唱える・・・自分です。
その核を中心に
私たちは日々を絶え間なく連続し、変化し
動いて生きている・・と
思うのです。
核はすべてのものに存在し
おそらく
この世に反応しながら形成される『我』とは別の
自分自身であろう・・と思います。
それはいたずらに
「我をはったり」
「自己を顕示したり」
「欲をかいたり」しない
柔らかい、やわらかい自分で
いつもいつも
無意識の内に
そこに立ち帰りながら
人は生きていると
思います。
なぜなら
ほんとうに生命が輝くときはみんな
無意識の裡に無心で
『ひたすらな自分・・・』が在るときですから・・。
自分の悲しみや
絶望や
無力感が
その汚れを取り去られ
時間のなかで浄化されて、
べつの深い理知となって
体の中に蓄えられてゆく・・そういう
働きは無意識の裡に処理をしてくれる
この無垢な核が在るからだと
私は思います。
遠藤周作さんの遺作
「深い河」では
神をタマネギに譬えています。
神という人格神ではなく
実在のないところにこそ
ほんとうの実在がある。
宗教を超えた
そういうおおきな存在に
気づかれたのではないかと
思います。
形があって形が無く
すべてが
抽象の
しかしすべてに存在する
命の働き。
それは
私の中にも
あなたのなかにも
すべてのものの中に
ある
『普遍的なはたらき』で
※有機、無機を問わず
それは在るかもしれない。
極めて原理的なひとつの現象として
在る・・かもしれません。
だからこそ
その大きな普遍的なものに
自分を繋げ
自分を信頼し
素直に
素直に
生きればいい・・と
私は
思います。
そこに
答えがあると
思います。
私に起きる感興も、
また加島祥造さんの「老子」を読んでも
身体じゅうに染み渡る共感があり、
それは
自分だけが温め大切にしてきた世界でもあり
と同時におそらく、
多くの人の中にも共通にある
「人間」の真実として
抽象化された世界だと思います。
つまり人間は常に
自分の内側を生きており、
外側ではないんだなーと
思います。
例えばタマネギの茶色い皮の下に
何層も重なられた
瑞瑞しい白い果肉が在るように
表面の外的世界用の仮面の下には
私達の中に溜め込まれた
感性や感情や執着が
瑞瑞しくあり、
実はそこ、つまり
無意識の”そこ”に
ほんとうの自分がいるんだと
思います。
誰にも邪魔されることのない
静寂の空間で
始めて開かれるその自分と言う扉の奥には、
きっとまだ赤子のように
素直でたおやかな自分がいるとおもいます。
こびりついた垢やユガンダ思いに捉われない
懸命に生きるあなたや私の真実・・といいますか、
そういう人間の"核”みたいなものを
私は「大いなるもの」または
「おおいなる自分」と呼んでいます。
たとえば表面意識の自分が
事実を捻じ曲げて
それを真実と思い込もうとすると
「いや、ちがうだろう」と諭し
違和を唱える・・・自分です。
その核を中心に
私たちは日々を絶え間なく連続し、変化し
動いて生きている・・と
思うのです。
核はすべてのものに存在し
おそらく
この世に反応しながら形成される『我』とは別の
自分自身であろう・・と思います。
それはいたずらに
「我をはったり」
「自己を顕示したり」
「欲をかいたり」しない
柔らかい、やわらかい自分で
いつもいつも
無意識の内に
そこに立ち帰りながら
人は生きていると
思います。
なぜなら
ほんとうに生命が輝くときはみんな
無意識の裡に無心で
『ひたすらな自分・・・』が在るときですから・・。
自分の悲しみや
絶望や
無力感が
その汚れを取り去られ
時間のなかで浄化されて、
べつの深い理知となって
体の中に蓄えられてゆく・・そういう
働きは無意識の裡に処理をしてくれる
この無垢な核が在るからだと
私は思います。
遠藤周作さんの遺作
「深い河」では
神をタマネギに譬えています。
神という人格神ではなく
実在のないところにこそ
ほんとうの実在がある。
宗教を超えた
そういうおおきな存在に
気づかれたのではないかと
思います。
形があって形が無く
すべてが
抽象の
しかしすべてに存在する
命の働き。
それは
私の中にも
あなたのなかにも
すべてのものの中に
ある
『普遍的なはたらき』で
※有機、無機を問わず
それは在るかもしれない。
極めて原理的なひとつの現象として
在る・・かもしれません。
だからこそ
その大きな普遍的なものに
自分を繋げ
自分を信頼し
素直に
素直に
生きればいい・・と
私は
思います。
そこに
答えがあると
思います。
by denshinbashira
| 2009-10-26 14:28
| 賢い生き方!
|
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