どうして感情を捨てるかっていうとね・・・・。 |
私の場合は感情を徹底的に捨てる・・・事だと
考えている。
これは極めて個人的な資質の問題で、
私の場合は強烈に支出される感情が
自分の癌だと認識しているからです。
逆に感情を抑圧してきた人は
感情の解放が
自己解放かも知れません。
自分や他人の内面を観察しながら
一体感情とは・・・と追求を続けた私の結論は、
おそらく生命保全のために、
幼児期の強烈な不安や脅威の体験に基づく
反応現象としてのホルモン分泌と
その理論付けとした意識化された感情・・・と言う風に
思います。
感情のなかでも
否定的なネガティヴな感情は
そのうらに
どうしようもない孤立感や
没落感があり、
救済されない自分の裏返しでもあると
思います。
人間の脳が絶対的な孤絶の中にあることは
その自己救済は
いつも自分のなかで堂々巡りをしており
偶発的なある瞬間に
他者から認知されたり
共感されたり・・という
一瞬の他人との一体感のなかで、
やっと
肯定的なホルモンが流れて、
解決するのかなーとも
思います。
私の中のネガティヴな感情は
どうしても
私自身の思考に歪みをあたえますし、
O視点で物を見ることを妨害します。
では感情を肯定的に変えたらいいじゃないか・・・という
人もいますが
もう身について、瞬間的に自動芸となってしまった
体のメカニズムは
そうは簡単に変えられません。
捨てる・・・・くらいの気概で自己暗示するくらいで
ちょうどイインデス。
捨てても、捨てても生命がその人間を保全しようとする限り
死ぬまで、それは働き続けるでしょうから・・。
先日どうしても私の中に起きてくる
このネガティヴな感情を
インターネットで
有名人の悪口にして検索したところ、
みごとに同様にその有名人に対する
否定的サイトが出てきました。
そのとき
私は
ああー
自分だけじゃーないんだなあ・・・と
ほっとし、
安心し
ほんとうにすっきり
しました。
楽しくさえ
ありましたよ!
そのことは
自分の中のネガティヴな感情のうらには
孤独や
孤立感があり
それが救済されないまま
堂々巡りをしてしまうんですね。
ひとりぼっちの自分が
自分にも見捨てられたまま
いるんです。
そういうたくさんのチャイルド(記憶)が
消えないでいるんだなーと
思いました。
ドンナ人間も
脳は孤絶していますから
自分が
自分を守ろうとて
自分の自我情報を作っていきます。
こういう否定的な、攻撃的な、嫉妬やねたみの裏にある感情も
実は
自分を守るために仕入れた自分の情報だということを
受け入れて
単に社会的な倫理や道徳で
自分を縛ったり
裁いたりしないことです。
自我を大きく突き放すと同時に
高い上空から自分を見渡して、
自分の全体に対して
やさしいまなざしを
持つことですね。
攻撃的な
否定てきな自分も
自分というにんげんを
生かそうと
自分のなかで
働いてくれたんだなあ・・と
感謝して・・・ね。
自分が自分に正直になっていくとねえ、
たいがい自分の嫌なことは
他人も
それを見破っていて
心の底の
底の無意識のところでは、
同じようなことを考えているモンです。
ただね
このこの世的な、
くだらなーい
フィルターが
かかっているだけで、
いつか
ほんとうのことが
明らかにされます。
この世とは
先日書いたような
自我というその人の有限な世界観どおしが
ぶつかりあっているにすぎない
もう既に
おきてしまった出来事の世界でね・・・。
私たちは
そういう
煩悩同士がコゼリアイをしている世界(過去)に
足を捕られている・・っていう
話です
つまらない
ことです。
そういう
コゼリアイは
ちゃんと
結果として
でるって
ことですね。