自分と言う”木”が立つ! |
明らかに心的引き込もりと思えた
国上山の五合庵から乙子神社の境内の草庵へ
下りて来たのが60歳の時でした。
私は今62歳でやっと少しだけ
自分が整理できて来たように思います。
人間も人間の世界も
まあ
タカが知れており
引篭もって
自分を守るほどのことじゃー
ない・・・とでも
言いましょうかねえー。
アノ良寛だって60年かかったのだから
まあーそんなものかなーと
思います。
3月に骨折して3週間入院したことが
ゆっくり自分を見直す時間となりました。
もうそんなに時間がない
残りの人生は
自分のほんとうの核のところで生きたい、と
真剣に考えました。
自分の人生を締めくくるには
どんな老人になりたいか・・・と
懸命に考えましたよ・・。
何が大切でなにが不要か、
ドンドン減ってくるエネルギーを
どのように有効につかうか・・・。
そして
62歳の自分に見えていない世界はなにか・・・と
自問するなかで
自分の中の歪みや曇りを取り除いて
できるかぎり
人間の実相、
社会の実相をみたいと
思いました。
それには
幼児期に自分が獲得してしまった
感情の歪みをできる限り取り除き
なるべく冷静に冷徹に自分をコントロールする。
人間や社会の表面に出てくる現象の奥のほうに
焦点をあてて観察と考察をする。
自分の中をフォーカシングし、
常に自分の本心に聞いてみる。
そしてそれが実現できるように、
朝誰もおきてこない時間に
ノートに向かい
夜寝る前にも
必ずノートに向かい
自己暗示をしていきました。
人間の感情はそれぞれの人間固有の世界観があり
とても面白くまた
大切でもありますが、
私の場合はどうしても感情にのっとたられたら、
現実を見極めそこなってしまう・・という
弱さがありましたので、
今年はこの朝夕の祈り(自己暗示)によって
随分自分の感情の整理ができました。
自分が恐れていたこと
自分が不安におもっていたこと
自分が勝手に思い込み、決め付けていたこと、などなどから
随分解放されたと
思います。
とどめは、萩原先生とやった
メシアコンプレックスからの解放で、
自分が握りしめていた他人との関係を
ポーンと手放して、
自己呪縛になっていた
他者への配慮や思いやりや気遣いから
解放されました。
いまは
野原の真ん中に
仏頂面した自分と言う木が
一本
立っているような気がします。
やっとよけいな贅肉が取れて
骨格だけで生きているような自分に
なってきたと
思います。
極めて
シンプルな自分です。
今日は大晦日ですが
ああー
ほんとうに
充実した一年でした。
読んでくださった皆様
ありがとうございます。
来年も
あの良寛のごとく、
「騰々任運」
運を天に任せて
ノホホン
のほほんと
生きれたら・・・と
思います。
良いお年を!