祝、田村、一か月一万円生活勝利! |
『黄金伝説』で
てっきり
田村が負けたとおもったけど
圧倒的に田村の勝ちだった。
浅草のゴロゴロ会館で
君たちの漫才を見たとき
君のことを
のっぽのデクの棒だとおもったけど
黄金伝説の君はなんとお馬鹿でオモロク
すっかり君を見直しました。
お笑い芸人は
こうでなくちゃー!
麒麟・田村の勝利は
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今度は春日のダクト飯と
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2011年 06月 30日
『祝 田村 一か月一万円生活 勝利!』
『黄金伝説』で てっきり 田村が負けたとおもったけど 圧倒的に田村の勝ちだった。 浅草のゴロゴロ会館で 君たちの漫才を見たとき 君のことを のっぽのデクの棒だとおもったけど 黄金伝説の君はなんとお馬鹿でオモロク すっかり君を見直しました。 お笑い芸人は こうでなくちゃー! 麒麟・田村の勝利は めちゃ うれしいです! 今度は春日のダクト飯と 対決ですねー! ▲
by denshinbashira
| 2011-06-30 21:57
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2011年 06月 30日
今日は、自分の自意識で苦しんでいる人の為に書きます。
あるお嬢さんからSOSのメールを貰いました。 とても素敵なお嬢さんです。 そのお嬢さんが、ご自分のチャーミングさを生かして イキイキと生きれるようになればいいなーと 思って書きます。 きっとほかにも同じように 苦しくてたまらないひともいると 思いますから・・・。 人間にとって”自分”という自意識は とても大切ですね。 自分という人間を意識することによって 自分という独特な世界や生き方を 意識することですから、 それがなくなると、人間という、ひとくくりの 集団の中に埋没して、自他の境目なく 混沌と漠然しか 自分の実感がないという事ですから。 しかしこれが過剰に働くこも 生きる上ではとてもつらいことになります。 じじつ、わたし自身が自意識過剰な人間で どれほど生きにくかったことでしょう。 じぶんを過剰に感じ、意識してしまう人たちは どこかで 自分を特別な人間だと思われたい 扱われたい・・・という願望が 潜在意識のなかにあります。 自分は、そこらへんの人間とはちがうんだ・・・という 高い自意識とプライドがあり、 常に、じぶんがどう扱われるかを神経が見張り、 自分が普通に扱われると 傷ついてしまいます。 こういう人たちがどうしてそうなるかは まあー幼児期におけるいろいろな事情や 親からバトンされたコンプレックスや それが裏返ったりということも あるでしょうが、 そのの一つとして 生まれて時から、過剰に親に期待されている。 つまりオギャーとうまれた瞬間から 生まれつきの天才であることを 期待されたり 凄い才能や アタマの良さを期待されたり 時には美貌や美男や スタイルまでを 親が期待していたり、 何らかの期待が 過剰に親や周囲の人間の潜在意識の中にあったら それは間違いなく その子の自意識へと沁みこんでいきます。 言っておきますが、 生まれたときは どの赤ん坊も ただの赤ん坊で、 いくら親がすばらしい遺伝子を持っていたとしても それはいわゆる、因子であって それがそのまま順調にいくとは かぎらない! つまり この世に特別な赤ん坊なんて ひとりもいません。 特別な環境に生まれた赤ん坊だって 赤ん坊は ただの赤ん坊です。 むしろ そういうところに生まれたことが 不幸かもしれないのに・・・。 その人間が”特別な人間”になっていくには そういう 特別な環境で 特別な育て方や 特別な教育をされないと 無理です。 しかも特別になるには その特別なことを かなり偏ってやらないと 特別にはなりません。 しかしそれは 大きなリスクや圧力を その赤ん坊に課すことにも なりかねませんし きっと子どもは 苦しいでしょうね。 たとえば今もてはやされている ゴルフの石川君だって おそらく沢山の事を犠牲にして ここまできたのだと 思います。 もしかしたら子供らしい楽しいことを 犠牲にして 練習にはげんだかも しれませんねー。 タイガーウッドだってかなり 歪んだ自分の内面を どうすることもできないでいる。 断っておきますが 人生の前半で獲得したものは よくもわるくも 必ず 人生の後半で ひっくりかえります。 人間は 人生の前半で欠落させたものを 後半でそれを埋めようと 無意識にして 自分の全体を取り戻そうとするのです。 そういう意味からするとむしろ 誰にもいじくられていない うまれたての赤ん坊こそは、 ”ぜんたい≒完成”なのかも しれませんね。 さて自分が特別なにんげんだと 思いたい”自意識”は それが特別ではないところで 激しく反応します。 つまり自意識では特別でも 周囲がその人を特別とはおもうわない・・という 現実、あるいは真実を 突きつけられたとき その人間の自意識が激しく震え、作動し 自分の特別さをわからないこの人たち…という風に 見下したり 嫌悪したり、否定したくなったり バカにしたり・・・という ”自意識の工作”をして 自分のプライドを保つようにします。 こういう人は ”ある気づき”しないかぎり 人生をすべて 酸っぱい葡萄・・・にして いつも孤立して生きてしまいます。 酸っぱい葡萄とは、 イソップ話で ブドウを食べようとした狐が どうしてもその葡萄に手が届かず 、そのブ葡萄のことを この葡萄はきっと酸っぱいに 違いない・・・と あきらめてしまうことです。 そうなんですよ、 本人はそう思わなくとも 実は あきらめて いるんです。 このトリック?はのちほど 解いていきますが・・・。 悲しいかな ただの赤ん坊は よほどのことがないかいぎり ただの人にしか 成りえないのです。 しかし 人生はそれほど 冷酷では ありません。 逆です。 あることに 気づいていくかぎり 人生に祝福のシンフォニーが ながれます。 それは 自分の手で 自分が特別な人間になっていく・・・と いうことです。 自分を追求することも 自分という 特別な人間になるんですけど・・・。 特別な人間になるためには 自分の目標に向かって たくさんの努力をコツコツと積み上げながら 少しずつ 自分のイメージする 自分のなりたい自分と なっていく。 それは親から期待されていた自分の像でも それが無理のない心地よい事ならいいですし 親とは全く関係のない自分像でもいいんです。 自分がそういう人間に到達するためには 何をどのように努力したらいいか。それを ゼロから立ち上げていく。 つまり 初めからあるのではなく ゼロ、何もないところから 自分を一ミリずつでも 一枚ずつでもいいです 自分でコツコツと ”自分の内容”を 創りあげていく努力する。 そしてね、 もう一つたいせつなことは 自分のサポーターを 創っていく。 ゼロから始める努力は、すぐには実りません。 そしてそういう自分のなりたい像へと 到達するには 自分だけじゃあー難しいです。 それだけではなく 自分なんてたかだか知れたものしか 収穫できないが、 他者の収穫したもので 是非自分にも必要と思うわれるものを 分けていただく或いは マネさせていただく。 一緒に成長できる仲間を 創る。 そのためには 自分のこころを開き 自分も自分の大切なものを 分けて差し上げる。 自分が経験した 楽しいこと オモロイはなし 素敵な品々 なんでも 惜しみなく そういうあなた自身が 廻りから見れば すごーく魅力的に思えるかもしれない! もしかしたら以前は プライドが高く 嫌なヤツとして 孤立していたかもしれない しかし いまは 一緒にいると ホントに楽しいひとに なっている。 そういうあなたを受け入れたくれた人が 貴女の周りにいて 貴女自身もどんどん 自分のことが楽しく 好きになって さらに自分の成りたい人間へと 近づいていく。 もっと嬉しいことは 親に期待されていたとき つまり人生の前半で身につけたことや 獲得したことは 消えないでいますから あんなに自分をくるしめたことが 逆転して 自分の感性や技術や教養として 財産になってくる。 事実私自信も 幼児期からやらされた音楽の世界、もー ピアノを弾かなくなって20数年たちますが それでも私の中には 音楽の感覚や感性や教養が まだ、生きていて 私の財産になっています。 もう一度 初めから 天才なんかいない 初めから 特別な人間なんか いない! この葡萄は酸っぱいにちがいない・・・んなこタァーないよ! 酸っぱくなんかないよ、 美味しいよ でもそれも 自分しだいさ! ほんとうは人間はみな それぞれが特別な”自分”という人間です。 そのことに ちゃーんと気づいているか いないかで 人生は大きく変ってきます。 誰もが自分という人間の 魅力に気づいて お互いの楽器で 大いなるシンフォニーを 奏でられると いいね きっと 楽しいよ! ![]() ・伝心柱マガジンはじめました。よかったらどうぞ! ▲
by denshinbashira
| 2011-06-30 11:04
| 人間
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2011年 06月 29日
ふかーいところで生きていたい・・・と思い始め
自分の位置がみえてきたせいなのか こころに安らぎがある。 自分が定点カメラのように坐し 周囲をパノラマのように見わたす。 自分も他者も窓の外の風景を眺めるように その全像を見ている。 思い出すと こういう位置は私が昔から おそらく少女期からずーっと 望み、熱望していた位置で 自分が外界を走馬灯のように見ているという 位置で しかし そのころはまだそこから見える風景に 感情がゆすぶられていた。 その風景の中で感情が翻弄されるのを恐れ そこは私の逃避の場所だったかもしれない。 しかしいま私は同じようなシチュエーションであっても 風景を外界を静かに 優しく眺めて もはや外界や風景は わたしを揺すぶることはない。 私は岸辺でゆく川の 流れをじーっと見ているにすぎない。 他者はもう私を襲うことも わたしが襲われることもない。 感情は私の中の太い幹となって わたしと一体化しており それはそれで地から汲み上げた 豊饒としてわたしの中を巡っている。 もしかしたらまだまだ 私は外界から風景から ゆり戻されるかもしれないが、 思いもかけない困難の中で 消耗するかもしれないが、 しかし 確実に全体像は見えてきている。 若いころは感情の無機、死ばかりを 考えてきたが 今は 感情の有機と生を讃歌し それを自分にも他者にも見ることが 嬉しいです。 やっと ここまで これました。 ![]() ・ 伝心柱マガジン 始めました。よかったら覗いてみてください。 ▲
by denshinbashira
| 2011-06-29 07:31
| 人間
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2011年 06月 28日
昨夜寝ようと二階への階段を上りきったところで
ふいっと 「ふかーいところで生きていたいなあー」と 思った瞬間 身体ごとほどけていくような感覚がきた。 この 「ふかーい」という言葉が そんまま自分の精神の希望のすべてような 行き着くところを指しているような そこに行き着くことが 私のすべてのような霊感に包まれた。 たぶんそのふかーい場所にゆきつくこと その場所に不動のごとくいることを わたしが欲しているのだなーと 思う。 深ーいところとは 禅でいうところの「全機現」かもしれない。 すべてが同時に働いている・・・という認識。 つまり私もわたしを取り巻く環境もすべてが 一瞬一瞬総体として在り、働いている・・・という 視野と認識の中で、動かず・・ 更にそれを外からみていたい という私の願望でもある気がする。 世の中はすべて”機”はたらきが”現”あらわれるのであり その働きのすべてを 外から眺め それにほんろうされずに、 理解している 承知している・・・という ことだろうか。 動くなよ!と わたしが わたしに言う。 もう一つ 寝床に入った私に もう一人の私が 常にこだわりをほどけ・・という。 自分の躓きや 固くなっている思いこみの塊りを ほどいてしまえ。 やわらかく やわらかく そこに張り付いている 不安や怖れを 取り除いて 無に戻してしまえ・・。 はたして私は ふかーいところに 行けるだろうか。 全機現を 実感しえたときは きっと おおいなる やすらぎに つつまれると おもうが・・・。 ![]() 碧い宝石がこぼれてる。 ・伝心柱マガジン 始めました。よかったら覗いてみてください。 ▲
by denshinbashira
| 2011-06-28 08:13
| 人間
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2011年 06月 27日
昨日のブログで
『”愛されたい”という 受け身の願望で そういうのは ナイから・・・・・。』 と ちょっと乱暴に書いたから その説明をしないと いけないね。 もう、ほとんどの人間が 「愛されたい」という願望を持っていると思いますが、 そういうことは ありえナイという事については よーく人間のことを考え さらに 自分の事もよーくみつめると、 分かる、きわめてシンプルなことです。 こういう譬えはどうだろう! 人間は神様からひとり10個ずつ パンをいただき。 その10個で自分の人生をまかないなさいと 言われた。 しかし大切な そのパンを もっともっと欲しいよーと 他者からねだられたら あなたはどうしますか・・・? つまりどんな人間も その人間が持っているエネルギーは 最大ながーく生きても90か100生きれるくらいの 量で たいがいが同じくらいしかもっていません。 他人を愛するということも そのエネルイギーの中から 他人ために費やすことで ほんのちょびっとだけならいいですけど たくさんあげたらその人が 消耗していきます。 まあたくさんの人が 性欲と愛とをごっちゃにしていますし 自分の性欲を相対化すらできない人間は どこかにめいっぱい自分が満たされる 愛があると錯覚して 相手からのエネルギーや保護を 幻想化するのでしょう。 自分があげないのに 貰えることなんかナイですし 自分があげる、しかもそれを ”愛”というなら 愛ってなんですかねえー? 愛というのを 無条件に他者に捧げるエネルギーだとしたら あいてからの見返りを 求めるのは筋ちがいでしょ。 親が子供にそそぐ愛も このブログで何度もかきましたが そこに潜在的な支配欲やコントロール欲があり 逆に子どもが親に捧げている愛も たくさんあります。 つまり 人間は性欲も含めて 自分の心の枯渇を厳しく見つめられず 他者によって埋める・・・という幻想を 創り出してきたと言えます。 そういう物語をつくる必然が あったのでしょうねえ! 脳そのものが未来を先取りしては 仮説を打ち立てていくという 器官ですから どこかで 自分に都合のいいように 他者を幻想かする・・という 必然があったのだと 思います。 私自身は人間の中には もともと そういう人愛そうとする意志や 欲求があるのだと思っています。 もっというなれば 人間という限界のなかで 生命が生きようとするときに 他者との共存、共感関係がひつようであり 特に男女の共同作業としての生殖、出産のためには 相手に対する強い執着や所有の概念によって 関係を強化、固定する必要があったのだと 思います。 人間が集団で生きる限界動物として そういう共同の心理が必然として 生まれたのだと思います。 それが文明が発達するにつれ 結婚が制度化されてゆくにつれ 逆に人間も愛の在り方も退化したというか 稚拙になった。 だんだん利己的なほうへと 傾いていったのではないかと 思います。 つまり国家のシステムが制度化して フレームが整ってくるにつれ 人間の内容も どんどん依存がひどくなってきた・・・と 思うわけです。 だから人間に対する認識が 甘い・・・。 口をあけてたら 愛がふってくるような 錯覚が生まれちゃってる! 無償の愛なんて 神様か よほど枯渇がひどいために 自己を聖人化した (このブログでも取り上げた宮澤賢治みたいな) 偉人たちぐらいしかありえないし ふつう、人間は潜在的に あげたら、その見返りをもらたいと いうのがもっとも 自然な心理ですし それでいいのです。 いちばんいいのは 自分という主体は 他者に対してどうスタンスをとるかを ちゃんと考えられることです。 私はこう思っています。 できるだけ自力のエネルギーと 自分に対する信頼(愛)で 自分を賄う。 そして ささやかなエネルギーを 差し上げるし 頂く、 つまり交換する。 一番の愛情は 他者のエネルギーを 自分の為に 奪わない! 他者の存在を、 つまり 全存在肯定する。 他者がどうであり それによって 自分が左右されるない。 (これはなかなか難しいことで、 私はやっと最近できはじめてきたところです。) 他者(お互い)がイキイキしだすと 自分も楽に他者と関われ エネルギーを対等に交換できて 楽しい! 初めから口をあけていて 愛されようなってことは ないからね。 それとあげてばっかりだと 相手からはどんどん軽く扱われてしまうからね。 やはり人間は対等で がっぷりとさして 人生は 横綱相撲を取らなきゃー おもしろくないですよ。 ![]() 曇り空を下から見上げて! ・伝心柱マガジン 始めました。よかったら覗いてみてください。 ▲
by denshinbashira
| 2011-06-27 09:16
| 人間
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2011年 06月 26日
物事をあまり断定するのもよくないが
村上春樹さんの本がたくさん売れるのは もしかしたらこの国の人々は ”あきらめて”いる人が たくさんいるのかもしれない! 古来より先人の生き方の手引書や 悟りの極意は あきらめるとこ、すなわち諦観で それは「あきらかにする」と こじつける人もいるが 私はそうではなく あきらめたほうが ずーっと生き易くなることと あきらめなくていいことを しっかり分けることだと 思います。 むしろ あきらめたら、もったいないことを きちんと分別することだと思う。 人間は内面を外界に投影していきているから どうしても目に見えるものや 目に見える世界を いじくって 自分を生き易いようにしようとする。 例えば、人間関係や、自分の環境や物質など その中でも一番大きいのが人間関係で それを何とかしたいと思っていても どうにもならない現実にぶつかり あきらめてしまう。 またその人間関係を通して 自分の願望をはたそうとするが なかなかうまくゆかないので あきらめてしまう。 結論からいうと そういう 他者に投影したもの 他者を通して 獲得しようとするものは さっさと あきらめてしまうことです。 その中で一ばん多いのが ”愛されたい”という 受け身の願望で そういうのは ナイから・・・・・。 他者への執着や依存が強ければ強い人ほど その落胆は絶望的になり そこから波及して 自分の能力や意欲や生命力まで あきらめてしまう。 では あきらめないでいいこととは? 自分の中にるもの 目にみえないものです。 自分の中にある可能性や 自分のなかにある 考察するちから。 じぶんのなかにある希望や願望。 これも他人を通して叶えるのではなく 自分を通して叶えようとする 希望や願望ですぞ。 自分の中にある・・というより 脳の基本的な性格、機能である ・前へ進むちから ・その生命を保全し生きさせようとする力としての 情報の収拾と編集力” ・自分の能力”を高める努力”は どんどん自分の知識や情報の解析力を高めていきます。 ・そして、物事を客観的に見るちから などなど 自分が主体となって 自分を磨いてゆく能力を あきらめない! 自分の中の内面力をあきらめては いけない! そのためには 傍観者をやめて ちゃーんと 自分の輪郭を 明確にし 主体を生きる。 間違いやドジや挫折などは 財産ですぞ! そして 愛されたい・・・なんて甘ったれずに 愛すること・・・。 ※ この愛するということばにはどうも 自己犠牲や献身のイメージがついてしまいますけれど そうではなくて、 相手のありのままを 受け入れることができる内面にしてゆく。 それは関係のありかたを 自分が主体の関係に 変えるちからとなります。 仮説なんぞばかり 喰わずに 頭をぶつけて、生きた情報を 掴んでいくほうが よほど人生が満たされていきますからね、 ひるまない! そして 心のなかを整理する。 特に依存や執着や自己憐憫(すぐ傷つく感情)を 捨てる。 ほんとにすごいもので いくら隠しても 本人が気づかないうちに その本心は ちょろーっとでてしまうものだなー・・と。 昨日の村上さんの文を読みながら 改めて 人間というものに 感心しました。 ![]() なんの花か知りませんが庭にたくさん咲き始めました。 父ちゃんは、こんなドギツイ花は、植えた覚えはナイ・・・と 言ってますが 私はこんなドギツイ花も好きです。 ・ 伝心柱マガジンを始めました。よかったらどうぞ! ▲
by denshinbashira
| 2011-06-26 07:54
| 人間
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2011年 06月 25日
カウンセリングをやっていると
中に永遠の傍観者…という人達がいます。 それは自分の主体を追求せず ことと次第によっては右に動き 左に動き 自分というものを明確にしない人たちです。 しかしこれもしたたかな頭脳プレーヤーで そういう自分を曖昧に保つことで ずーっと自分への注意を惹き付けていく。つまり こころあるひとは永遠に 振り回される・・・・ゲームのなかに はめられていきます。 こういう人は頭がいいですから ああいえば こういう…という風に 論点を微妙にすり替えて なかなかその核に切り込むことができません。 こういう人が勇気をもって 自分の殻を破った時は ほんとに素晴らしい人へと 再生していきますが、 殻を破れないと ずーっと他人をコントロールし続け ゲーマーとして他人をくたくたにして尚かつ 本人はいつまでたっても 充足をえられない! 私の恩師はそういう人を 最後は ぶん殴りましたねえー。 それはとても 危険なことで そこでぱっと 扉が開けばいいですけど もし それでも強固に自分の殻を守った場合は 強い恨みを買います。 それでも助けたい・・という 熱い思いが先生にはあったのでしょうねえー! 昨日、村上春樹著「雑文集」というのを 買ってきました。 以前ある人から勧めらて 「神のこどもたちはみな踊る」という短編集を読みました。 それは勧められたこともあるんですが 村上さんのイスラエルでの勇気ある発言に 共感したこともあり買いました。 しかし読みながらとちゅうから どうもなんだろう なにかぼかしているなあ はぐらかしているなあ・・と感じはじめ、 その本を最後まで読んだかどうかは 覚えていません。勿論 内容に関しては ほとんど覚えていません。 私の心が動かなかったのだろうと思います。 しかし 最近また氏は原発で、はっきりと意志を示されましたので イヤ、私の思い違いかなーと 思っていたところでした。 昨日、さっそく読み始めましたら・・・、 ああ・・やっぱり・・と ガテンがいく文章がありました。 「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを 生業とする人間です」 中略 「なぜわずかしか判断を下さないのか? 最終的な判断を下すのは常に読者であって、作者ではないからだ。 小説家の役割は、下すべき判断をもっとも魅力的なかたちのして 読者にそっと(べつに暴力的でもいいのだけれど)手渡すことにある。」 まさに素晴らしい頭脳プレーをもっている ”傍観者”ですなー! 作家が判断を下そうが 下すまいが、 最終的には読者が判断を下すに決まっているのです。 作品を世に出したらあとは 共感されようが 賞賛されようが 串刺しにされようが 読者に切り刻まれようが それは 読者の主体の意志で 読者の勝手です。 作家が読者を信頼していあれば そんなことなど 自明の理なのですが、 問題はこの言葉です! 「下すべき判断を、 最も魅力的なかたちにして、 読者にそっと(べつに暴力的でもいいのだけれど)手渡すことにある。」 おお、おお さすが知恵者 ・ 魅力的な形にして つまりうけとりたくなる形にして・・・と ・ そっと手渡す つまりきずかれないように そっと。わたしちゃう! べつに暴力的でもいいけれど・・・と 居直っていますがねー! 素晴らしいマインドコントロールです! まあ作家と読者が共依存関係にあれば このゲームは永遠につづきますから ビジネス的には成功です。 まだまだ最初のページですし 最後まで読んでみなければ 分からないかもしれないし、 もしかしたら 彼の最近の発言は 自分をさらす勇気がでてきて 彼は自分のそのベールを脱ぎ始めたのかもしれないですね。 でも 最後まで わたしが食いつくかなー・・? 「小説家は、素っ裸で日本橋に寝そべっているようなもの」 岡本かのこが言ったのか 岡本一平が かのこの事をいったのかは 覚えていないのですが、 そういう自分のすべてを 衆目の下にさらす覚悟のもとに 小説を書くんだ・・・という気迫です。 わたしが小説を読まなくなったのは 小説も書いたその作家の閉じられた世界で そこであれこれ起きる人間関係には よほど作家が勉強し熟していないかぎり なんか観念的な簡易なきがして つまらない・・・と思ったからです。 現実の人々のありさまのほうが よほど多様で豊かで新鮮で 生き生きしていますよ! 最後はやはり 読者にたいする信頼と 友情と 愛情ですね。 でも 永遠に 読者をひきつけておくには 素晴らしい戦略ですけど もしかしたら、永遠に 殴られないのは 不幸かも しれませんね。 ![]() ・伝心柱マガジン 始めました。よかったら覗いてみてください。 ▲
by denshinbashira
| 2011-06-25 09:10
| 人間
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Comments(2)
2011年 06月 24日
どうして宮澤賢治の言葉が
すきとおったたべものみたいに わたしたちのからだに入っていくかというと それは わたしたちも同じようなたべものを 持っているからです。 今もそうなのかもはしれませんが ある人々は賢治を神格化したり 偉人化したりしていますが わたしは賢治も私たちと同じように ナマ身の人間で おなじように生きることで格闘し あがき また同じように 世間知らずで 自分勝手で 泣き虫で 甘ったれで その他いろいろと 同じ人間ですよ! ですから 同じように透きとおってもいるけれど 同じように 濁ってもいるし 同じように 心細く生きているし 同じように 図太く 生きてもいる。 賢治のことをが解析できてくると どうして賢治が 家の宗教である”浄土真宗”にゆかず ”法華経”にのめりこんだかも わかりますし、 あんなに優秀な頭を持ちながら なぜ やることが場当たりてきで 長続きしないかも ヨーク理解できます。 それはそれでいいよ・・とも 思いますが 当時、そういうお前さんで いいよ!って 誰からもいわれなかったのでしょうね。 いや たひとり 妹さんの”トシ子”さんだけが そういって支えていたと思いますが トシ子さんは賢治が25歳の時に 亡くなってしまい、それ以来 賢治の心は、糸の切れた凧みたいに 流浪していしまいます。 もしトシ子さんが生きていて 賢治を支え続けてたら 賢治は次第に農業技師として また詩人として大成していったかも しれませんね。 私たちにとって 他人、他者のことは 不思議の領域で だから羨望をもったり 逆にみくだしたり 或いは飛び抜けた才能を持った人を 選民化したり ただの人なのに 首相と言うだけで なにか・・・を期待したり・・・といい よくよく考えれば あまり根拠のない賞賛や 卑下をしてしまいます。 でもみんなそれぞれが 素晴らしいとこ はんぶん ダメなとこ半分で 上空の大鳥から見れば ただ点が 歩いているにすぎません。 ひとつ 大きなちがいがあるかというと それは 自分を 知っている人と 自分知らない人かも しれません。 自分を知っている人は 自分の可能性も 自分の限界も 承知していて 自分を知らない人は 自分の可能性、 限界という認識が かけているのかもしれません。 自分の可能性も 自分の限界も 自分という人間と 外的世界との関係の中で生じる ものですから 岩手の財産家の息子に生まれた賢治は 恵まれていた分 自分と外的世界との距離や価値観を きちんと獲得できなかったかしれません。 でも それはそれでいいです。 だからこそ 賢治は大人になっても マントをはおって 風の中をとぶ又三郎や 雪童子になれたのだし 銀河鉄道のカンパネルラにも成れたのですから、 しかし 一方のジョバンニは とうとう汽車から降りで 下界へかえってきてしまい、そこに 賢治のどうしても 自分一人が飛翔していくことに対する罪悪感が 働いてしまったのでしょう・・・。 でも もう少し賢治が人間社会を リアルに冷徹に見る事が出来ていたら きっと歳をとるにつれ どんどん凡庸になっていったでしょうし・・ねえ。 いずれにしても賢治のあの世界を築くことができたのは 賢治ひとりではなく 賢治を取り巻く多くの人々 賢治のいた空間と時間のなすことで それは賢治に係ったすべての人が 賢治の人生の物語のキャストです。 同じように 私という人間が今、ここに ”私という内容”を持って存在しているのも わたしに係ってくれたすべてのひとびとの おかげです。 わたしを好きな人も わたしを嫌いな人も 親切なひとも イジワルな人も 一緒に過ごした人も すれ違うだけの通行のひとも 売店で物を売ってくれたひとも この世に生まれた瞬間から 係ってくれたひとすべてが オールキャスト、つまり ソウルメイトというわけですね。 賢治のように 飛ぶような才能を持つことができた人も 地を這うように 地道に生きる人も 其れぞれが 自分の物語をいきていて この世の中はすべてが 縦横無尽に錯綜し 絡みながら 自分の物語として 綴れ織られていきます。 不思議ですね。 脳のネットワークのなかに それらは随時収納されて 必要に応じて編集されて 私たちの行為と行動になっていくなんてね! まあ 私はまだ生きてますから 物語が終わったわけじゃアー ありません。 皆さんも そうでしょ! まだまだ これからです! ![]() 光は夏の輝きになってきています。 ・伝心柱マガジン 始めました。よかったら覗いてみてください。 ▲
by denshinbashira
| 2011-06-24 09:09
| 宮沢賢治
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2011年 06月 23日
よーく自分のことを観察してみると
私たちが思いつく頭の中の未来像は、 たんに架空を想像して描いただけの 絵空事とは違う 臨場感があるでしょ! ひらめいたり 思いついたりする未来像は それにこころが踊っていたり わくわくと 意欲がわいたりと そこに息吹がそそがれているから 臨場感を伴うんだね。 それは未来を 自分の頭の中にあるデーターの総量を駆使して 或る確実性をもって 描くわけだ! つまり賢治がどうして「春と修羅」のような詩を書いたり 銀河鉄道に乗って四次元世界へ行こうとしたかというと たぶん、それが、 いつか可能だとおもったからではないかと 私は思う。 もし賢治がそれを確信し 自分にある 強迫観念、 つまりいつも誰かに見られているような視線や いつも監視されているような 錯覚、それから発して 身体に起きてくる不安を 克服できてたら 素晴らしいメッセンジャーとして 活躍できたカモ しれない! しかし 臨場に溢れた未来感と同じように 私たちは 不安や怖れなんかも 先走りして未来予測にそれをかぶせると ななんだかほんとにそれがおきるみたいな 臨場感にとらわれてしまう、 そういう風に感じることは ないだろうか・・・? だからそれが過剰になると 不安神経症や 被害妄想になって あたかもそういう現実があるように 錯覚してしまう。 賢治のなかには、このように アンビバレンツな二つの極が同時に存在していたと 私は思っています。 そして一つは 脳の中の世界(脳の現実) もう一つは 身体の現象 (分泌されたホルモンによって支配されている 身体の現象(体の現実) アタマではわかっているが 身体が受け入れない・・・ということが よくあるでしょ・・・。 そういう自分の中の矛盾に遭遇しながら 或る時は飛躍や意識の表面を支配し 別の瞬間に 自分が落下していく こういうシーソーのなかに 賢治がいたように思いますが、 それって先日書いたように だれでもそうで、 水にぷかぷか浮かび、反転する自我を 持っているからです。 私たちは常に未知と遭遇しながら生きているから 未来は力いっぱい想像力を発揮してみようとする。 だから、そこには 可能なもの、不可能な世界もチャ―ンとみて 仮想している しかし 一方で 不安や怖れを発動させると その仮想の被害を 見て怯える。 もし ほんとうに イキイキとした未来、 安心してそこへ行きたいなら 自分のなかの 余計な不安や怖れを きっぱりと お掃除してしまう事です。 身体の中にある(体が反応してしまう) そういう傷を しっかりと 癒して 解決してあげることです。 賢治はあんなに情熱的に 『農民芸術論』をうちあげたのに なぜ、俗的な倫理のなかで敗北していったかというと 彼の体の中の不安や怯えを 彼は甘く見て、 そのお掃除をしていませんでした。 最も時代はまだまだ人間の深層心理に暗い時代で、 とりわけ日本などそういうことに対しては 無知に等しい時代ですから 無理もないのですが・・。 彼が理想を夢み、 ほんとうに農民に成ろうとして 農民のフィールドに入っていったとき そこには 彼の科学や物理や思想や理念を理解する人々ではなく 地べたに這いつくばって いきている 貧しい農民たちでした。 酷い収奪を受けている人々です。 当然賢治は 金持ちのボンボンとして羨望され ボンボンの道楽としての農業やそして もしかしたら自分たちの市場を荒らされるかもしれないという 疑心と警戒の目を 彼はうかうかと 見落としていました。 人の好いしかし苦労知らずです。 そういう目にさらされたとき はじめて賢治は 人間の奥にある煩悩の闇の深さを しったかもしれません。 当然 アインシュタインの来日に感動し 相対性理論や 新しい物理理論が語るメッセージの先に 未来を夢見た賢治の賢治の脳は 墜落をはじめ 身体はどんどん萎縮を始めました。 冒頭にも書きました通り もともと賢治の童話作品のなかには 「銀河鉄道の夜」にでてくるサソリの話も 「よだかの星」や『『なめとこ山の熊」や「貝の火」なんかも いわゆる”自己犠牲”という 裏返せば”自己の顕示”をゆるさないという 強迫観念が 種としてあり、 その種を産みだしたのは 自己の顕示の挫折による 不安と怖れです。 つまりあの時空を超えて 自在に飛び続ける賢治の自我は 突然、体のなかにもぐりこんでいる 不安や怖れやの幻影に つかまっちまった…という事だと 私は思います。 脅迫観念の 自分を監視するもう一つの 自分の目は、 ほんとうにお前は農民の現実を 熟知していたのか・・・? あの農民たちに自分はドン風に 思われているのだろうか・・? その重たい現実を 軽々しく扱って、なお 語ってしまった自分の本意のなかの 誠実を示すには どうしたら信じてもらえるか? もうこうなったら 自分の体も心も 透明にして明け渡すしかナイ! いっさいの下心はありませんと・・・ね。 一方では時代の最先端というより 世界の最先端ともいうべき頭脳を 持ちながら 一方ではなんと 稚拙な自我への認識でしょうか・・・。 あまりにもひ弱な自我 逆に言うと たぶん幼児期にものすごい圧力で 自我がへし折られた可能性があります。 飛び立とうとしたら おもっきり足を掴まれて 地面にたたきつけられたというような 自我の挫折(成功禁止令)があります。 あゝー彼は、早く生まれすぎましたねー。 彼の脳のなかなど 誰も理解しえない! でも でも しかし もし彼が現代に生まれていたら その幻想的で 湿度の高く壊れそうな 素朴な感情が流れる銀河鉄道は 生まれなかったと 思います。 あのキラキラ輝く言葉たちも うまれなかったかも しれない! しかし 彼よりずーっと未来を生きている 私たちは 学ばないと・・と 思いますよ。 大きく 広く たくさんの 可能性を 創造していく脳と 地道に一歩ずつ進み 飛躍し 飛んで行ってしまう脳を 制御する 身体の 名コンビで ”わたし”という人間は成立しています。 飛んでいく脳と 歩くからだ この二つともを どうしたら 大切に 生かせるか・・・・。 生かしてほしいなーと 願いながら いつも このブログを 書いています。 追、人間は親や環境を選んで生まれてくることが できません。だから自分の宿命を背負っていきるしか ありませんね。 もし強烈に自我がへし折られている・・・と気づいたら まず、自分が恐れていることや、ルーチンワークみたいに 反応してしまう自分の心をみつけだして それに反応しないように、また自分が極力安心するように 気持ちを向けてあげてください。 そして、そういう自分から見たらマイナスの事も、実はそれと きちんと向き合い格闘しそして解決の道や出口を見つける努力の プロセスに、とても大切な学びや獲得があります。 どんな人間も、それぞれに苦悩や悲しみがあり、そこを通り抜け 突き抜けていく人生のプロセスこそ、その人がその人として 「在る」証です。大切な”自分”という証明でもあるんですね。 ![]() 雨の中に咲いてくれて、ありがとね! ・伝心柱マガジン 始めました。よかったら覗いてみてください。 ▲
by denshinbashira
| 2011-06-23 08:43
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Comments(5)
2011年 06月 22日
今日かくことも昨日に続き
とうとうタオリさんもアタマにきたかーと 思われそうですけど・・・笑い! ![]() 書いちゃおう! 自分とは 自分という一本の確定した自分がある・・・なんて 思い込んでいる人なら 自分とは常に変化し続ける自分という現象で それは確かに基本的な 脳の記述に基づいた 反応のパターンという”傾向”は あるけれど それは所謂、確定的でも 固定的でもない、 ゆるりとしたくくりの中で 常に新しい刺激を編集しながら存在する・・・なんていうと たいがいの人は びっくりするよね。 たいがいの人は、 自分という確定したものがある・・・という前提で 生きているだろうからさ・・・・。 でもよーく自分を観察してみて御覧なさい。 自分というのは少なくとも 自分の思いどおりにならない自分や どうしてこういうことになっちまんだろうという 自分や どうしてもそうしなくてはいられない自分や いつもダメだなあーと後で後悔するような自分や さまざまな自分が 場面ごとにいることに 気づくでしょう! 自分が少しずついぜんとは変化していることに 気づくでしょ。 自分の中にも 前意識 潜在意識なんて 自分が自覚できない 世界があるし、 昨日かいたように 偏在する自分と言うたくさんの 欠片とでもいう意識達 時間や空間を超えて 出てくる自分の無意識達も そういう 脳の働きとして ごく 普通に 気づかずにやっちまっている 自分という 現象なんだね。 それを人間は 偉そうに 表面意識のところだけで 取り締まろうって わけさ・・・。 集団の規範とか 掟とか 常識とか 伝統とか 習慣とか いろいろなくくりで 取り締まろうとするんだね、 自分も他人も そのほうが安心するからね。 勿論それらの事は 自分を守り育ててくれる 表面意識でもあるが それに従わないと 不安や恐怖が 張り付いてしまうことが 問題なんです。 人間は一人では生きれない、 赤ん坊はなおさら 育ててもらわなけれならないという 受け身でしか 生きれないから いつの間にか そういう防衛の心理を 獲得してしまうんだね。 しかし 人間の歴史はそういう くくりを破る不届きものの為すなかから 進化してきている。 ![]() それは 脳の世界が そういう委縮した 狭ーい世界では ないから、 そこにストレスや 破れ目や逸脱が生じてしまう。 実はそういう逸脱や脱線を おもろいなあーと 手を打って喜ぶ・・・人のほうが ほんとうは素晴らしいんだけれど、 たいがいの人 特に大人の人間は 困惑して 迷惑がり 果てには 逸脱や脱線を恐怖に思い ひたすら自分達の手の内というか フレームの中に 治めようとして 否定したりするんだね。 宮澤賢治なんか ものすごくヘンに思われただろうねえー! どうやらアインシュタインが来日したころに あの「春と修羅」の詩も書かれていたみたいで 賢治は相対性理論を読んでいたらしい!から もしかしたら 影響されてあの詩を作ったかもしれない。 そうして あの自空間をこえて次元移動する 現象としての自我や ジョバンニ達が 三次元から銀河鉄道に乗って 4次元行きの切符を持っていたなどは なんだか空想みたいだけど そうじゃなくて 賢治自身はそれを実感していて 書いたものと思われる。 みんなが思い込んでいる確立した あるいは動かしがたいような世界は 実はいくらでも変化させることが可能ななんだよ! その思い込みや 既成概念を解いて 自分を解放していこーって 思っていたかも しれないね。 過去の時間という集積のなかにいた自我は いきなり反転して 時間の外に放り出される。 時間という観念から解放されるともいう。 つまり 水の中に浮かんでいた氷の塊を ぽんと突くと反転するように またぽんとつくと もとに戻るように、 実は 私達の意識は 外面とと内面を反転させたり 過去と未来を 意とも簡単に 反転させてしまうことができる・・・というより 過去や未来 外的世界と 内面世界を自由に行き来しながら 今という瞬間の 映像を結んでいるんだね。 脳の中は なんて魅力的なんだろう! きっと賢治の脳のなかは 溢れんばかり 電流がいそがしく せわしくうごいていたと 思う。 ただ 身体の世界は それについていけなかったと 私はおもいますが・・・・。 こういうことが ごくごく普通に理解されるようになると 「銀河鉄道の夜」という童話は ロマンチックな ファンタジーなんかじゃなくて 実は 科学や物理や心理学に基づいた 実験小説(童話)なんだと 分かるだろう! まあ難しいことは 私ごときの力量じゃあー説明できないから それは各自が勉強していただくとして 言いたいことは ただひとつ 頭の中を 自由に しよう! ということで チンケな人間関係なんかで 悩まないで どんどん 自分の好きな世界をお造りなさいよ! 脳は空より広いか?と 以前書いたが 脳はそらより広い・・・だけど それを 小さく狭くしているのも 自分自身です。 自分の中の恐れも 不安も自分が思い込んだ幻影だと 書きましたね。 そうなんですよ、 だから そういうものに脅かされて 一生を無駄にしないように そういうもんは エイ・・ッとけっとばして 手足を自由に伸ばし 楽しく のびのびと おやんなさい”! まあ―ちぢこまりたきゃー それも自由ですけどね! 今日も一気に 書きました。 追 こうわかってくると 賢治が人間を解放した世界を作ろうとしたこと なぜ『農民芸術概論』を書いたなどが 解けてくる。 Moreに『農民芸術概論』をのっけておきます。 ![]() ・伝心柱マガジン 始めました。よかったら覗いてみてください。 More ▲
by denshinbashira
| 2011-06-22 08:20
| 宮沢賢治
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