イングマール・ベルイマン「秋のソナタ」から |
題名のロマンチシズムとはほど遠い
インナーチャイルドを解決できていない娘、
つまり
自分の子供の頃の心の傷のなかで
うずくまって
過去から抜け出せない娘エーヴァが
母親の過去を追及し
攻撃する
すさまじい映画です。
よくこういう映画を
つくりましたね。
さすが
ベルイマンです。
皆さんはもうご覧になりましたか?
もし
あなたがどこか苦しくてたまらないのなら
是非みてください。
もしかしたら
解決する糸口があるかもしれない。
物語は
愛人を亡くし
おそらく弱っているであろう
母親を
「気分転換に」と
自分の家におびき寄せる娘のことから
始まります。
おびき寄せるとは
尋常な言葉ではありませんが
人間の深層心理をすこしばかり
理解している私には
まさに
そのように見えますよ!
過去の傷から抜け出せない娘エーヴァは
自分を否定し、
その否定された自分を楯にして
生きています。
楯にするとは
過去を言い訳にして
過去ばかりに視線をむけています。
そこには
今
自分が愛されていることにも
気づけず
さらに
自分の人生を自力で切り開かず
未来を生きないと
いうことの
言い訳にして生きているエーヴァがいます。
しかし
それも
無理のないことなのです。
人間は
過去を解決していない限り
その記憶が
自我を乗っ取ってしまいます。
過去の記憶が強烈であればあるほど
今の自分の自我に
それが
ブレーキをかけてしまうのです。
だから
エーヴァは
どうしても
母親を攻撃し
自分の心の中に巣食っている母親を
退治しなければ
過去から
抜け出せないのです。
それが彼女の
もがきです。
一方、母親のシャロッテは
いつも現実的で
過去を見ないようにして
常に
割り切り、
未来へと自分を掛けていきます。
しかし
この母親も実は
過去を
解決できていないからこそ
過去を見ないようにしているのです。
つまり彼女は
自分の過去から
逃げてばかりいる人間です。
しかし
それは
もしかしたら
娘のエーヴァよりもっと
深刻で
深い闇があり
だからこそ
彼女は
自分の少女時代すら思い出せない。
母親のシャロッテは
エーヴァよりもっともっと
親からの愛情を貰っていないために
不特定多数の人間
どこのだれともわからない人間たちからの
拍手喝采のなかで
やっと
満たされている。
だからこそ
まるで
麻薬を吸うように
ピアニストとして
演奏会のために生き
演奏旅行に
出てしまいます。
その二人が
いよいよ
対決せずにはいられないところへと
追いこまれてしまう。
それは偶然のようですが
偶然では
ありません。
娘のエーヴァが
全てを
吐き出して
光にあてずには
生きていられないように
母親のシャロッテも
自分の心の中の闇を解決せずには
いられないからこそ
まるで
ふらふら、うかうかと
糸に操られるかのように
娘のところへと
来てしまう。
そこにも
彼女の傷と闇を
光の中に出したいという
深層心理深くに希求がある。
生きることへの、働きが
あるのです。
シャロッテは
自分の深い闇と傷に
向き合わない限り、
つまり逃げてばかりいる限り
彼女はどんどん軽薄になり
さらに
その演奏も
どんどん薄っぺらになるしか
ありません。
その演奏に深い闇の影がさすからこそ
その葛藤を引き受けるからこそ
演奏に客観性が生まれ
奥行ができ
心のひだが
あふれてくるのですからね。
自分の闇のプロテクターをかぶせている限り
音楽はつくりもの(偽造品)にしかならない。
だから彼女は
どこかで
自分の演奏がどんどん軽薄になることに
漠然と
気づいているはずです。
人間は
深層の闇が深ければ深いほど
表面的な人間になっていきます。
その深い闇へと向うことに
恐れがあればあるほど
思考が停止され
表面をなぞるだけで
生きようとします。
でもね、
どんなに思考停止になっても
表面だけなぞって生きようとしても
深い闇にあるものは
消えないのです。
それを解決していかない限り
その深い闇にある深層心理は
その人間の
脳と体を
規定し
コントロールしてしまいます。
エーヴァの妹で
実の娘、
脳性麻痺が進行するヘレーナのことを
「死んでしまえばいいのに」という
シャロッテの激しく、軽薄な言葉は
自分の深層の心理の動揺を
どうしても消すことができないからです。
自分の過去の心理桎梏を
追っぱらおうとする反動で
でてきた言葉です。
つまり
彼女も確実に
過去を
引きずっている。
この母親は
自分の過去の闇を解決しない限り
どんどん軽薄になり
社会の表面的なことばかりを気にし
計算高い
現実高利主義へと陥り
さらに
背中の痛みが
彼女の体を蝕んでいくでしょう。
この背中の痛みとは
彼女の心理の緊張からくるものだと
私は思います。
頭の中の緊張が取れず
それが
首から肩からだんだん下へと
広がってゆくのです。
最後は腰へときて
立てなくなるかも
しれません。
しかし映画は
この
母と娘が
壮絶な対決をします。
娘の容赦ない攻撃に
母親はたじろぎながらも応戦し
しかし
やっと彼女も
自分の子供時代の記憶、
<インナーチャイルド>を開きます。
いわゆる社会的な常識なるものや
親子信仰の中にいる人は
この映画を見て、
眼をそむけたくなったり
否定したくなるかもしれません。
でも
これでいいんですよ。
人間はそう甘くはないのです。
人間は親からさまざまに
闇をバトンされるもんです。
だからこそ
人間は
親を総括し
親と対決し
乗り越えるかが
人生から問われるのです。
それは表面的に見れば
憎しみと否定と攻撃の
応酬に
見えるかもしれません。
耐えがたい親と自分の
自殺行為に
思えるかもしれませんが
そこを乗り越えてこそ
光が見えてきます。
その戦いを制してこそ
自分の中の憎しみや
人間否定の感情が
溶けていくのですよ。
自分ではどうにもならない
自分の感情や
衝動の原因が
見えてくる。
そうしてやっと
自分の人生の謎がとけ
自分らしい人生の鍵を
手にいれるのです。
凡庸な人間やカウンセラーは
その
もっとも厳しい側面を
回避しようとします。
しかし
そうするかぎり
その人間の核へとたどり着くことも
できません。
周辺を手直ししては
同じ問題の周囲を
ウロウロするしかありません。
ほんとうに
過去から解放された
新生なる自分を
手に入れることは
できません。
いいんですよ
親と戦い
乗り越えてください。
今朝も私は
親との対決を果たし
新しく
生きなおそうとする女性へと
メールを返信しました。
すぐにすべてが変わるわけでもなく
解決するわけでも
ありませんよ。
しかし
もう彼女は
直面することを恐れず
そして
直面したことを糸口に
自分で
自分の人生を解決し
創造する一歩へと
踏み出したと
思います。
優れた映画監督たちは
これでもか
これでもか
と
人間を追求し
描いてくれます。
カサヴェテス
イ・チャンドン
ダルデンヌ兄弟
そして今回の
ベルイマン
彼らが容赦なく人間を裸にし
人間の本質とはなにかを
突きつけてきます。
つまり
私たちは
どう生きたらいいか
さらに
どう死んだらいいか
と
人生が
問いかけている・・・と
いうことだと
思います。
ちなみ
宮沢賢治も
壮絶なる
父親との対決の中を
生きました。
だからこそ
彼の作品に
透明感と品格が
あるのだと
思います。

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●第4回「秋のソナタ」映画から自由奔放によみとってみよう!
(伝心柱×村上浩康)
映画監督イングマール・ベルイマンの世界
第3回「ロゼッタ」
(伝心柱×村上浩康)映画監督ダルデンヌ兄弟
1時間半近い対談時間ですが
是非
ご覧ください!
第2回「オアシス」映画監督イ・チャンドンの世界
!
第一回「こわれゆく女」より
映画監督 ジョン・カサヴェテスの世界。
●<告知>
このたび本を書きました。
「拝啓宮沢賢治さま」不安の中のあなたへ
田下啓子(denshinbashira)著
(彩流社 1800円+税)



岡田愛さんという
うら若き女性の
パステル画家さんにお願いしました。
裏表紙の花は
賢治が大好きな
マグノリアの花です。
宮沢賢治も
最後は
「空はれわたる!」という
自立を果たしたと
思います。
どうぞ
皆さま
賢治が
・ほんとうはどういう人間であったか
そして彼は
・なにを勘違いし
・なにと
・戦ったか
を
読みとっていただければと
思います。
