海山かのん著「宮沢賢治ってどんな人?」 |
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2018年 02月 26日
もともとのダブルバインドとは
親が言葉では自由にしなさいと言いながら、 その眼からは、 自由にしてはいけないというサインがでていることで、 子供はどちらにすればいいのかわからず、 身動きができなるという状態です。 しかし今回私が使っている意味は、 Aさんも、ロゼッタも 子供であることを封じられ、 アダルトチャイルドで、生きていますが、 しかし、自分を犠牲にして、親及び大人世界へと 適合したのにも、かかわらず、 その自分さえも否定されるという 二重に縛りがかかり、身動きできないという意味で 使っています。 この子たちがアダルトチャイルドになってしまうのは、 子供時代に、子供としての自分を親や大人に ●挫かれているからです。 社会へデビューする前に、すでに、親や大人に 挫かれているのです。 天真爛漫にチャイルドでいることを挫かれているからこそ 彼らは子供大人になるしかないのです。 さらにその子供大人になてっさえ、また挫かれています。 ロゼッタの前にも、Aさんの前にも、 現実という大きな壁が立ちはだかり、 もうすでに一度挫かれて、 自分本来の生命エネルギーを奪われている、 アダルトチャイルドにとって、 その壁は重くに彼らにのしかかってきます。 もし彼らがチャイルドを挫かれずに、普通の子供として 生育していたならば、 エネルギーは子供の時同様に温存されていますから、 現実にチャレンジするのも、のりこえるにも、 それほど大変ではありません。 新鮮な意欲の下、エネルギーも湧いてきます。 実はマルメラードフも、 多分子供時代にすでに挫かれていると思われます。 挫かれて弱きになり、小心になり、 そして彼は大人になった現実でも挫かれており、 だからこそ、意欲を失い、酒におぼれて行きます。 もうおわかだと思いますが、 挫かれた人間が立ち直るのは、とても大変です。 ロゼッタやAさんがニヒルに世の中を眺めるのは、 彼らのせいではないのです。 彼らの子供時代の周囲の大人たちが原因です。 真っ白で生まれてきた子供たちが、 その無邪気で天真な心を捻じ曲げなければならなかった 彼らの周辺の大人たちとの歪んだ関係があるからです。 おそらくリケも挫かれていますが、 リケはロゼッタほどではない。 彼はささやかながらもその自己世界を生きています。 ここに、人間が生きることの難しさや大変さがあります。 では、ロゼッタやAさんが、元のような元気なチャイルドを 取り戻せるか、というと それは、なかなか難しいです。 でも、ダルデンヌ兄弟監督は、ロゼッタの傍にリケを置きました。 そして、マルメラードフの傍にはソーニャがいます。 ソーニャが娼婦をしながらも、なお、強く生きているかは ソーニャの信仰があります。そして実は マルメラードフの愛情があったからです。 その愛情とは「愛してる~!」というようなものではなく、 少女のソーニャが握った父親のマルメラードフの手のぬくもりから、 マルメラードフの微笑から溢れて来る温かいまなざしから、 空気のように伝わる、 「お前がいることが、どんなに嬉しいだろう」というサインです。 いったん人間不信になってしまうと、 それは瞬間的、自動的に、人間不信や人間疑心が 立ちあがってきます。 しかし、 諦めないでほしいのです。 ロゼッタとリケは、 二人の間に不信や疑心が何度も起き、 そのたびに喧嘩し、葛藤するでしょう。でも 人間は無意識の裡に、 相手が自分にとって大切な人であることを 知っています。 Aさんも、あっと思った瞬間に そこにはニヒルに人間やものごとを眺めている自分がいるでしょう。 でもね、 諦めないで、自分を軌道修正してほしいです。 そしてAさんには、できるだけ、いままでとは違う人々との 出会いを果たしてほしい。 今までの自分を取り巻いていた人間たちとは違う種類の人々。 できるなら、 ・シャドウ攻撃をかけてきたりしない人。 ・自分をこじらせない人。 率直に、正直に、そして楽天的に生きている人々の傍へ 自分から、歩いて、出会ってほしいです。 そして、自分のニヒリズムもシャドウも捨ててしまうことです。 さて、あすから二日間京都に行くことになりましたので ブログはお休みです。 煮詰まった頭を、からぽっにするための 空間移動です。 何も考えずに遊んできます。 ロゼッタも、Aさんも若い! 世の中は広い、 優しい人もたくさんいる! 心の温かい人もたくさにいる。 出会えると いいね。 ![]() ▲
by denshinbashira
| 2018-02-26 10:00
| カウンセリングノート
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2018年 02月 25日
<心だけを描こうとした>という視点から見ると
パズルがとけるように 見えてきます。 <心だけを描こうとした>視点でみると 物語の中(人間社会)では、 人生には敗残尽したマルメラードフは 酒に溺れ、精神の弱さから立ち直れず、 一家を支えるために娼婦となって娘が稼いできたお金すら 飲み代につかってしまう。人間のクズのようなマルメラードフです。 社会不適合者です。 しかし、そのマルメラードフの両脇には 聖女のようなソーニャと、 自意識で脳を病み、狂気寸前のカテリーナが います。 ドストエフスキーはなぜこういう配置をしたのでしょうか。 そして不思議なことに ソーニャもカテリーナも、マルメラードフに困り果てながらも 憎んではいない。 ここに神の目線があるように私は思います。 神の目線の神とは、 宗教的な神ではありません。イエス・キリストや、釈迦でも、 マホメットやその他でもありません。 神の目線とは、<命>そのものを悼む目線です。 命の誕生を祝福し、その命の最初から最後までを見届け、それを 祝福する目線です。 その目線は、いかなる<命>に対しても平等であり、 いかなる<命>にも愛と祝福を注ぐ目線です。 今生の人間社会では、どうしようもなく、ダメで落ちこぼれて 敗残していく人間、 そこには,一切の生産性もなく、むしろ他者のほどこし受けながら、 かろうじて生きている人間。 その人間すらすら包み込み、 それでいいよ、という眼差しです。 気が弱く小心なマルメラードフは、 人間社会における適正を欠き さらにその自我が一切挫かれているために、 どうしても、自己を乗り越えることも、這い上がることもできず、 いつもどぶの底におちてしまいますが、しかし 優しい。 カテリーナのヒステリー攻撃にも耐え、 優しい。 ほんとうに、こういう男が現実にいたら、 周囲の人間はたまったものではない。 しかし、 彼が他者を脅かそうとか、攻撃しようとか、 貶めようとかは、ありえない。 その力すらない。 そのそばでソーニャは聖書にすがりながら、 赦しの中に自分を置こうとし、いっさいを受け入れる。 反対にカテリーナは攻撃を自家中毒させながら、 いっさいを拒否し否定していく、しかし、カテリーナには エネルギーがある。 その狂気のエネルギーに突き破られて、彼女は死んでしまう。 この構図をヒューマニズム的に、感情的に よみとってはいけない。 人間社会の俗的な視線でみてはいけない。 この構図を神の目線<心だけがそこある>という目線でみてみると そこには、人間社会の属性(俗性)の中で 痛みに痛んだ人間の心が三つ並んでいる。 同じように、ロゼッタとリケの心だけを見てみると、 此処にも、 ダブルバインドで、縛り上げられて身動きできないロゼッタと 少しおバカさんだけど、優しいリケの心だけが 並んでいる。 この三つと二つの心にどこか行き場はあるのだろうか。 どこか、彼らが休息と安心を得られる場が この世にあるのだろうか。 しかし、 少なくともソーニャとカテリーナにはマルメラードフがいる。 そして、ロゼッタには、リケがいて、リケはロゼッタを許してくれるだろうか。 人間の社会は、人間が作り出したものでいっぱいだ。 人間が作り出した価値観で測られ、 人間がつくりだした常識なる観念が横行し、 人間が作り出した力学が大きく作用してしまう。 そしてこの五人は、そこから大きく落ちこぼれている。 彼らは人間社会では、無力であり、役にたたない。 でも、かれらの<命>もそこでひっそりと息吹いている。 ダルデンヌ兄弟監督や、ドストエフスキーが 何を意図し、何を言いたいかは、わからない。 しかし、 <心だけをとりだして>見た時、 私には、この五つの心が愛おしい。 ボロボロに傷ついている心が、 いとおしい。 次回は、ダブルバインドにかかっている ロゼッタとAさんの心をとりだして 書こうと思います。 ![]() ▲
by denshinbashira
| 2018-02-25 13:56
| カウンセリングノート
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2018年 02月 24日
<心だけを描こうとした>
ダルデンヌ兄弟監督もイ・チャンドン監督も ドストエフスキーも、漱石も龍之介も、 おそらく、 心だけを、 描こうとしたのだと 思います。 そうすると、なぜロゼッタがリケを裏切ったかが 明瞭に理解できていきます。 そうするとなぜ、ドストエフスキーが マルメラードフを登場させ、描いたかも、 見えてきます。 それには、心というものが、 どんなものであるかを理解しなければならない。 <心>というものが どういう風に現象化していくかを理解していなければ、ならない。 そしてロッゼタの一つの目は<心>をみている。 もうひとつの目は社会の<リアリズム>を見ている。 さて、Aさんにかかっているダブルバインドとはなにか。 私が一番最初にAさんと会った時、 彼女の子供の頃に描いた絵を見せてもらいました。 そこには、クレヨンで描いた力強いタッチの自画像が描かれており、 おさげ髪で真っ赤な服を着た、エネルギッシュな女の子が 描かれていました。 その生命力あふれる子が、なぜ、 ダブルバインドにかかり、身動きできなくなったのか。 Aさんの話を聞きながら、みえてきたのは、 子供のAさんを取り巻く、大人の環境です。 その環境が次第にAさんの チャイルド性を奪い、 Aさんは、子供なのに、大人まがいの自分でなければ、 自分を維持できなくなった。 つまり、子供なのに、大人まがいの自分へと背伸びさせねば、 自分の環境のなかで、生きることができなくなったのです。 いわゆるアダルトチャイルドです。 子供なのに、大人の争いに心を痛め、 子供なのに、大人の面倒をみ、 子供なのに、大人をなぐさめ、 子供なのに、大人の愚痴を聞き、 大人の感情の受け皿になり、 子供なのに、大人に変わって判断したり、 子供なのに、子供でいることが、 子供で生きることが できなくなったのです。 子供なのに・・・・。 子供の自分、無邪気で天真爛漫で、 本当は大人がその純真な心を守ってあげるべき、それが逆転して、 子供の自分を捨てて、諦めて、 醜く争う大人をなんとか支えて、 思春期も、 青春期も、かろうじて生きてきたのに、 Aさん二十歳の時に、もう決定的にAさんが支えてきた大人の世界が 破綻しました。 その大人たちの目は、 自分たちの事ばかりにかまけ、 Aさんがどんなに彼らを気遣い、支え、そしていつも心を 痛めていたかなどは、目に入っていませんでした。 Aさん、つまりアダルトチャイルドのAさんも 力尽きて折れてしまいました。 Aさんの心にかかってしまった二つのバインドつまり足枷、 ひとつは子供でいることができない、子供自分を生きれない足枷、 もう一つは、子供の自分を捨ててアダルトチャイルドになってまで 大人達を支えた足枷です。 にも関わらず、それが無残にも崩壊したこと。 そこに残ったのは、自分(Aさん)の大きな無力感と徒労感と そして、 大人たちが作り出す社会のリアリズムです。 醜く争い、大人の人間の作りだすエゴが蔓延する社会のリアリズムです。 ロゼッタはそれでも、母親を背負い、果敢に 社会の現実に挑戦していきます。 体じゅうの怒りをハリネズミのように膨らませて武装し、 体当たりで、挑んでいきます。 そこには、リケのように売り上げをちょろまかすというような 小物の悪ではない、 彼女の怒りが焦げ付いた真正面の悪、 深い絶望感が張り付いた、現実へのニヒルな挑戦があります。 説明できない、怒りの塊の、それが彼女を突き動かしていくのです。 しかし、 その最後の挑戦にも力尽きた時、 ロゼッタは、 心に敗北し、 自殺へと走ろうとします。 「自分を密告して、自分の仕事を奪った女(ロゼッタ)に対しも なお優しい、その間抜けさに腹が立つ」 というAさんは、ロゼッタそのものの苛立ちでもあります。 ただ、Aさんとロゼッタの違いは、それでもまだロゼッタの中には 獣のような怒りの生命力があります。 それが、自殺をする前に、卵を茹でて食べるロゼッタです。 自殺をするために、ガスボンベをえんやこらと運ぶロゼッタです。 そのロゼッタの耳に遠くから、リケのバイクの音がきこえます。 そしてロゼッタは力尽きて、ボンベを落とし、倒れます。 <心だけを描こう>とするダルデンヌ兄弟の映画のロゼッタ。 同じように <心だけを描きだした>ドストエフスキーの マルメラードフ。 そのことを次回書きたいと、思います。 ![]() ▲
by denshinbashira
| 2018-02-24 09:12
| カウンセリングノート
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2018年 02月 23日
ダルデンヌ兄弟監督の映画「ロゼッタ」を
ある若い女性(Aさん)に見せた。 Aさんはロゼッタに反応せず、 ロゼッタに気持ちを寄せる優しい青年<ロケ>に 強い反発を示した。 その理由を聞くと、 「自分をだまして、自分の仕事を奪った女(ロゼッタ)に対しも なお優しい、その間抜けさに腹が立つ」 とのことであった。 その通りだね。 映画ロゼッタ」を見ていない人のために ちょっと解説すると、 ロゼッタは、アル中でもう人格が破綻しかけている母親を背負いながら、 必死に生きている少女ですが、 何かの理由で仕事を解雇されてしまいます。 失職したロゼッタに心をよせているのが、リケという青年で、 ロゼッタに自分と同じ路上のワッフル売りの仕事を 斡旋します。 しかしタイミング悪く、その仕事も社長の事情で ロゼッタはまた失業してしまいます。 実はリケはこっそり自分用のワッフルを水増して作り、 その利益をふところにいれているのですが、 ロゼッタは、リケという初めての友達を得たと思いながらも 自分の職欲しさに、そのことを社長に告げ口をし、 リケは追い出され、その後釜にロゼッタが座ります。 しかし、リケは優しい、 ロゼッタに裏切られたにもかかわらず、 どうしてそんなことをしたのかと ロゼッタにつきまとって聞こうとするが、 ロゼッタはこたえられないし、説明のつけようがない。 追い詰められたロゼッタはガス自殺しようとしますが、 そのガスもきれてしまい、代わりのガスボンベを運ぶ途中で 倒れてしまます。 その倒れたロゼッタをリケが抱き起した瞬間に ロゼッタの中の何かが壊れ、 それまでは、 コンクリートのように渇ききったロゼッタの感情の割れ目から 涙があふれて来る。 リケはどちらかというと頭がいい方ではない、 どこか緩やかでおばかさんである、でも、 リケは優しい。 Aさんは、そういうリケに苛立つ。 なぜなら、Aさんの中には ダブルバインドにかかっている自分があり、 それはまるでロゼッタのように ガラスのように壊れやすい自分のその周囲を 強力に固いハードガラスでコーティングして、 砦を築いており、 そうそう簡単に、リケの優しさには応じられない もう一人のロゼッタがいるからです。 先日「MIZUTAMA」の特集企画で、 ドストエフスキーの「罪と罰」の登場する人物たちを 日本の俳優でキャスティングするということがありました。 大変面白い企画ですので、掲載後は是非お読みいただければと 思います。 その時、参加者の中から興味深い質問をされました。 それは、 マルメラードフという敗残者が出てきます。 彼はひどいアル中の中、 生活苦のなかで 自分の娘が娼婦をして稼いできたお金さえ、 自分の飲み代に使い果たしてしまうほどの クズ中のクズのおとこです。 そのためとうとう家族は破滅的に追い込まれてゆきます。 ただ、マルメラードフは優しいです。 底ぬけに気が弱く、 優しいのです。 そしてマルメラードフは馬車に曳かれて死んでしまい、 彼の妻カテリーヌは狂気を発して、 幼い子供を残して死んでしまいます。 質問は、それほどクズで破滅的な男と彼の妻が どうして結婚したか、という質問です。 果たしてダルデンヌ兄弟監督が、 ドストエフスキーを読んでおられたかどうかは 分かりませんが、たぶん教養として読んでおられたと 私は思いますが。 私にはロゼッタとリケの姿が マルメラードフとカテリーナに重なります。 生きることに、ほんとうに不器用な二人です。 さて今回このシリーズをかきはじめたのは、 人間の奥深い底にある懊悩について、 それをダブルバインドの観点から 解きほどいていきたいと思ったからです。 おそらく、 ロゼッタやAさんと同じように ダブルバインドにかかり、 どうにも生きられない、 どう生きても、そこに否定と人間不信しかない その海の中で、生きている人達に 私の遺言としても,書いておきたいと 思いました。 ゆっくり書きます。 なんとか言葉が届くように わかりやすく、心をこめて書きます。 だから、少しずつ 読んでください。 ![]() ▲
by denshinbashira
| 2018-02-23 12:54
| カウンセリングノート
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2018年 02月 22日
大学時代の親友の旦那さんは、
肝臓がんの手術を2年間で4回もしたそうで、 4回目の手術を終えて退院した二日目に 突如亡くなったとのことでした。 彼女の話では手術のリスクをしらなかったそうで、 もし、それを手術前に知っていたら・・・。ということでした。 「それで貴女はどうなのよ」と言われましたので、 私は一切健康診断には行かない。ただ 血圧が高いので、 それは薬を呑んでいることを話しました。 さて先日偶然にも、西武線の池袋駅で、 立花隆さんとすれ違いました。 私は構内から出ようとし、立花さんは 構内に入って行かれました。 お元気で何よりです。 そしてこの度は 立花さんの著書「知的ヒントの見つけ方」の中にあった一行に 驚いてしまいました。 それは 「人間最晩年になると、 もうこれ以上生きていなくてもいいや思いつつ・・・」と 書いてあったからです。 実はも私そう思っているのです。 そうか、立花さんも、そういう心境かと思うとともに もしかしたら、老人の多くは、 そういう境地に達しているかもしれないとも 思いました。 つまり人生でかなりやりつくして満足し、 心の執着が取れていく中、 成熟がおきてくる。それが、 老人の心境かもしないからです。 まあ、そうじゃない爺さん婆さんもいるかもしれませんが・・・苦笑! 少なくとも私は、もういいです。 いつ終わりがきてもいいです。 もう十二分にやりつくしました。 今は残りを元気にこなしているという感じです。 ただこういうことは殆ど人には喋りません。 自分ひとりの胸の中で そう思っています。 他の方がたもそうじゃあないでしょうか・・・。 話せばきっと家族が心配するからね。 逆に書道家の篠田桃江女史などは、 105歳なのに、死ねないでこまるのよ~。と 書いておられます。 もうこうなると 延命など関係ないです。必要ないです。 なにか世の中も、医療者たちも、 人間が皆、死を恐れていると、勘違いをしておられるのか、 それとも、生きるのは、 塵が積もるように経験が積もり、 そしてやがて、そこに充足が来るということを ご存じないのか。 誕生から死までの人間の命の営みは、 皆が、思い通りにはいかない自分との闘いです。 それでも、皆懸命に生き、そしてそこには確実に その人の足跡が刻まれています。 だからこそ逆に、 文明の医療が、 いたずらに命をいじくることに 私は反対です。 私はいっさいのサプリも呑みません。 ただ、自然に命の赴くままに任せます。 そして 立花さんの著書によると、 死は怖くなく、 むしろその瞬間は、 まるで眠りにつくようなのだそうです。 自分の命に、 人生に、 感謝です。 ![]() 蝋梅です。 ▲
by denshinbashira
| 2018-02-22 08:23
| すべては脳の中でおきている。
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2018年 02月 21日
何でもそうですが、冷厳なる事実(真実)と向き合わなければ、
人間も世の中もドンドンおかしくなります。 しかし、それこそは、とても厳しく難しく、困難なことです。 私は最初ユング心理学から入り、当然のように河合隼雄さんの本を 読みまくりました。 しかし、脳の事を知れば知るにつれ、ユング心理学には限界があり、 もう古いというか、 これは古典的な心理学体系だな~と、 思い始めました。 残念なことにユング心理学からは、 鬼っ子というか奇形というか、 おかしなスピリチャル主義者を生みだし、 私の大学の親友も、それにハマってしまい、今もそうです。 だから私は河合隼雄さんには、 せめて死ぬ前にユング心理学の総括をして欲しかったです。 昨日、ずっと疎遠にしていたその親友から、 突然電話がかかってきました。 「けいこさ~ん、旦那が死んじゃったあ! 「あ、そう!・・・」 「肝臓がんだったの。」 「へ~・・・?」 「二年前に会った時、話したでしょ!・・・」 「あ、そうだったっけ、わすれちゃったあ~、アハハハハハ!」 それで二人とも大爆笑!! おかげでそこからは、湿っぽい話にならず、 「旦那がいなくなって、家の中がさびしいよ~ん、 でも週二日、学校にいっているから、大丈夫!」 彼女は合唱指導の大プロなのです。だから今も 合唱コンクールにむけて請われて指導にいっているのです。 色々話して近況を聞いた後、 「けいこさん、今なにしてんの?」 「ウエブ雑誌つくったり、遠野の町おこしもやってるよ!」 「えっ、遠野、あの柳田国男の、? じゃあ~、ザシキワラシに会った??」 「あわね~よ、ザシキワラシなんてイネ~よ!」 「・・・・・・」 「でも、ザシキワラシは遠野の文化遺産だから、 妖怪展をやってる」 「・・・・・・」 いい歳をして、いまだにスピリチャルから覚めない。 ホントはね、彼女は、とてもシャープな頭脳のひとだったんですが、 自己幻想(自己ナルシズム)から、どうしても冷めることができず、 私とは道を違えました。 冷厳なる事実(真実)、つまり夢から覚めることは、 厳しく自分を見つめることでもあります。 しかし、 しかし夢から覚めてみると、そこには 今までの浮ついた幻想ではない、あらたな世界が見えてきます。 それは、いわゆる小児的(チャイルド的)世界ではない、 大人として、 理性の世界の別の感動があります。 死後の世界はない、しかし だからこそ、 襟元を整え、シャンとして背筋をただし、 自分の死を、自分の人生の集大成として受け入れ、 死すら愛するのです。 70歳のバアサンどうしの会話は、とても楽しく、 「じゃあ~、またね!」 と。 次回はこのシリーズの3として、 ●延命なんかいらない!ということを 書きたいと思います。 ![]() ▲
by denshinbashira
| 2018-02-21 07:09
| すべては脳の中でおきている。
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2018年 02月 20日
今日はちょっと嬉しかったことを
書きます。 まあ、それは私には嬉しいことですが、 もしかしたら、それが嬉しくない人もいるかもしれません。 本屋をぶらついていたら、二冊の嬉しい本に出会いました。 ひとつは<知の巨人>と言われる、立花隆氏の本 「知的ヒントの見つけ方」と もう一つは脳解剖者の養老孟司氏の本 「半分生きて、半分死んでいる。」 です。 その中でも、今日は立花さんの本のことを書きます。 立花さんがもう、はっきりと<死後の世界はない>ということを 書かれています。 これまでも立花さんはその著書で <死後の世界>はないであろうと書かれてはいましたが、 この本では、もうハッキリと 「単純明快に死後の世界などというものは、 そもそも存在しないし、たとえあったとしても、 この世の住人たる我々とは、いかなるいみでも通底するところがない。」 立花さんはいわゆる公人ですから、その言動には、 慎重になられ、しっかりとした論拠をもってしか 臨まれなかったのだと思いますが、 もうその必要もなく、現代科学で、ほとんど証明されると いうことでしょう。 そしてこのことは NHKテレビ「臨死体験・死ぬときはどうなるか」という番組でも 放送されたらしいのです。 そしてその時スピリチャル主義者の人達や、 霊媒や宗教関係者などから かなりの抗議があったらしいです。 私は最初、心について精神分析の世界から入りましたが、 あの<オーム事件>の時以来、 心は脳現象ではないかと思い、 この十数年は脳関係の本を手当たり次第に読みました。 そして今、 心はやはり、脳と体との相互作用でおきる現象だと 思います。 ただ、それを説明するのは大変むずかしいです。 しかし、だからこそ、根拠のないオカルト的なもので ごまかしたりしてはいけないと 思っています。 人間の人生は一回こっきりです。 だから、一瞬一瞬がとても大切なのです。 更に神も人間の想像の産物であり、 宇宙には人格などありません。 そして人間の脳世界も体も常に変化していますから、 守護霊とか過去生などもなく、 人間は死んだら、電流のスイッチが切れて終わりです。 生きることはとても大変ですが、しかし 神に依存したり、おかしなオカルトに依存したりせず、 しっかり自分と向き合い、 自分の力で人生を切り開くことこそが 健康な心になります。 今朝コンピューターが壊れてマウスが使えなくなり, ブログを書くのも一苦労しています。 ほんとうは、もっと詳しく書きたいのですが、 取りあえず、 死後の世界は、 ないということです。 ![]() ▲
by denshinbashira
| 2018-02-20 18:16
| すべては脳の中でおきている。
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2018年 02月 19日
ほんとうに大きく類別すると
私の眼には二つの種類の人間が見えている。 ひとつは<上昇指向>をする人間たちで もう一つは<地べたの自分>で生きようとする人間です。 圧倒的に多いのは<地べたの自分>で生きている人間で この人達たちは、 自分の等身大に近い、かなりリアルな自分で生きている。 だから、地べたに足をつけて、 なんとか自分を生かしていきたいと 思っているひとたちです。 ところが、人間というのは、 いつも社会や他者を幻想化してしまうために 上昇指向し、上昇した人間の方が地べたの人間より あたかも優れているかのような幻想をもってしまう。 上昇指向して、この人たちが目指すのは、世の中の表舞台である。 しかし、そこは幻想領域で、 陽炎のような、あるいは一炊の夢のようでしかない。 上昇指向をする人間は 有名になることや、 なにか偉業を成し遂げることや、 その名前や行為が広汎に承認されることで、 自分の存在を確認しようとする・・・。 しかし圧倒的に社会を支え、そしてそこにエネルギーを 注ぎ込んでいるのは、 地べたの人間たちであり、 その不連続に連続するネットワークの中で 社会が成立している。 例えば私の食べ物ひとつも、だれかによって生産され、 加工され、運ばれ、売られてこそ、私たちはそれを手に入れる。 もっと言えば、だれかが<苦労しながら>生産し、 誰かが<一生懸命工夫しながら>加工し、 誰かが<危険なリスクを負いながら>運搬し、 誰かが<一日中店頭に立ち>それを売ってくれる。 それぞれが社会の歯車のひとつとして、 社会のネジのひとつとして、 黙々と生きている。 それは よくよく見ると、 凄いことを担ってくれている! こんなことを言うと、 今の若者は古臭い、説教臭いと笑うだろうが、 ほんとうに尊いのは、労働で、 誰からも称賛されるでもなく、 承認すら怪しい中で 黙々と働くその姿に 私は敬礼する。 ほんとうに凄いのは 上昇指向しない人間だと 私は思っている。 親の期待をかけられて、知らず知らずのうちに 上昇指向をしてしまった私が、 様々な人生の試練を受けて、辿り着いたここが 私の原点です。 黙々と、誰かのために、働こう(書こう!) ![]() ●知的女子の隠れ家的マガジン「MIZURAMA」4号 大変お待たせしていますが、あと少しで新しい記事を載せます。 特に、海山かのんさんの漫画「宮沢賢治ってどんな人」に ご期待ください。 ![]() ▲
by denshinbashira
| 2018-02-19 07:10
| 生きる歓び
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2018年 02月 18日
羽生君のショートプグラム、素晴らしいかったですね。
まあ、金メダルとか銀メダルとかそんなものは どうでもいいです。 ただ、ショートプログラムで、 彼がプレーする瞬間が 見事でした。 ※私はフリーはみていませんので、それについては 分かりません。 私は、見るともなく、 偶然テレビで彼がプレイするところを見たのですが、 演技のために氷上に立っていた羽生君は 全てを諦めたように 全身の力がすっかりぬけていましたね。 ※諦めたというのは、 自分の●意識的力でコントロールすることを諦めて、 自分の体にまかせたということです。 だから意識は溶解し、 頭の力も顔の力も体の力もすべてが 彼の足もとのエッジへと落ち、そこに重心がありました。 そして、 ショパンのバラードが始まるとともに、 彼の全部が見事にスケートのエッジに乗っかって、 エネルギーが流れ始めました。 その瞬間に私は、これはいくわ! 思いました。 彼のすべてがスケートの足元の一点へと 集約されて、それは、 点のエネルギーから 線のエネルギーへと流れていきました。 それは最後まで線としてのエネルギーがブレることなく 最後の一点へと集中を持続させて終わりました。 人間が何かを究めていくと、 ある瞬間、神がかってしまう時があります。 つまりすべてのことが <全機現>として現象化することがあるのです。 ※<全機現>とは、自分の内部と外界とが 同時に現象化しているということです。 しかしそれも、一瞬のことです。 そして、それが持続するということは、とても難しいです。 その時はできても、それはほんとに一瞬で 次にも同じようにやろうとしても、できません。 わかりやすく言うと、 あの時羽生君は、 意識が消えて、 無意識そのものの存在になったのではないかと 思います。 彼の意識は足の裏にあるエッジに集約されていき、 最終的には、 その意識すら消えて、 存在が一瞬、無意識そのものになる。 自分とその周囲の世界、宇宙もふくめて 存在全部が一体化して、ひとつに現象化する。 つまり小さなフロー状態がおきたのではないかと 思います。 これは、特別の人だけがそうなるのではありません。 ただ、そうなるためには 自分が<無心>にならなければなりません。 その<無心>になるということが 難しいのです。 欲をすて、意識をすて、ただひたすら、 それまでの自分の今に 任せる。 徹頭徹尾そこには 自分への信頼が、その存在を蔽い尽している。 それが難しいのです。 なかなか誰にでもできることではありません。 しかしなにかを極めつくしていくうちに 自分の外的世界と自分への信頼が一体化した創発が起きる。 例えば、名人の技術を持つという人など、 そういうところへと辿り着いている人だと思いいます。 そうなると、もう体にまかせた瞬間、持続的に その技術が再現されて行きます。 ただね、私たちは、実はいつもそういう無意識で 生きているのです。 つまり私たちは生きることの名人なのです・・・が、 そこによけいなものが入った瞬間から、 無心ではなくなり、同時に名人ではなくなるのです。 迷人になるのかな! 面白ね。 羽生君、おめでとう! ![]() ![]() ▲
by denshinbashira
| 2018-02-18 11:30
| 風のエッセイ!
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