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2022年 02月 09日
こちらも大宣伝で~す! 皆さんの知らない一葉さんを書きました。そして 一葉さんと桃水さんの恋の真相はどうであったか 今までほとんどの作家が一葉さんの日記に騙されています。 そこが一葉さんの作家たるしたたかさですが。 多分面白いと思います。 ![]() #
by denshinbashira
| 2022-02-09 10:31
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2022年 02月 09日
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by denshinbashira
| 2022-02-09 10:29
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2022年 02月 08日
私はふつつかながら物書きの末席に住む者として
どうしても、人間に、偉人だとか求道者だとか 自己犠牲の人だとかの幻想のレッテルを張っることに 違和感があります。 それは賢治だけでなく、これまで書いた樋口一葉も、高村智恵子も そこに人間としての複雑で複層的な断面を見ざるを得ないからです。 一葉は単なる赤貧を生きる親孝行娘ではありません。 彼女の内面には、男ですらひるむような体当たりの行動や女の矜持世界があり、 智恵子は光太郎の幻想を生きながらも、 一方では親兄弟を案じるごく普通の女性であり、 その自我の軋みで苦しみました。 賢治の場合も何かきっちりと分かりやすくと嵌められた賢治のフレームに 違和感があり気になって仕方ありませんでした。 さらに「春と修羅」の詩と序文の謎めいたことばも なんのことやらチンプンカンプンで分からない、というのが 本当のところでありました。 しかし、 三十代の中頃の或る日「春と修羅」の序の文の意味が 目の前がいっぺんに開けたように全部わかったのです。 また、人間の脳のことを学ぶにつれ、 人間も人間という現象のひとつであることが 分かってきたきたことで 私の脳の中の賢治データーが、 一気に連結し、解凍したように思います。 その時、賢治という人は、偉人とか求道者とか自己犠牲という 通俗的な範疇をはるかに超えた、 いわば脳センサーが飛躍して現象化するゾーンの人ではないかと 思いました。 また、賢治の作品を片っ端から読むにつれ、 初期、中期の詩や童話は、 その躍動やユーモアや色彩がキラキラしているのにくらべ、 「羅須地人協会」あたりから賢治の言葉がちぢみだし、 「銀河鉄道の夜」は葬送行進曲のような憂鬱さがあり、 失速していく賢治の息苦しさを感じました。 以来、あゝ考えたり、こう考えたりして 30年余ばかり賢治を追いかけてきましたが、やっと最近 賢治は、こうだったのではないか、ということが見えてきたと、 いう訳です。 さて今日最終回としてお伝えしたいのは「グスコーブドリの伝記」です。 あの恐ろしく厳しい挫折を賢治はどのようにのりこえようとしたのか、 そのヒントが「グスコーブドリの伝記」ではないか、と思いついたのです。 「グスコーブドリの伝記」の原案は「グスコンブドリの伝記」で 私は「グスコーブドリ」より伸び伸びとした「グスコンブドリ」のほうが いい作品だと思います。 一方「グスコーブドリ」の文体は、遠慮がちで、「グスコンブドリ」にあった おちゃめでユーモアの部分が削除されてあります。 なぜ賢治は「グスコンブドリの伝記」を 「グスコーブドリの伝記」に書き直したのか。 「グスコンブドリ」は昭和6年頃書かれたのではないかという説がありますが それもはっきりとはわかりません。 そして「グスコーブドリ」のほうは昭和7年の3月には発表されていますから 明らかにあの「雨ニモマケズ」の挫折より6か月くらいあとになっています。 あの挫折の後明らかに賢治は「グスコンブドリ」に手を入れたと思われますが、 もしかしたらあの後、少しずつ心の傷が回復しはじめるのと同時に 賢治は、以前書いた「グスコンブドリ」を杖にして、 「グスコーブドリ」へと推敲しながら なんとか自己回復をつかもうとしたのかもしれないな~とも思うのですが、 それも本当のところは分かりません。 しかしおそらく前回書いたように、賢治の中では、 まるで「「常不軽菩薩」のように自分を最も下に置き、 謙虚に慎ましく生きようとする 新しい賢治が、生まれたのではないかと思います。 これも私の推測であり、ほんとうのところは分かりませんがしかし、 賢治はその辞世の句(昭和8年9月20日) 「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる」ではもう 晴れ晴れとした賢治がおり、 昭和6年、7年そして8年を経るその短い時間の中で、 おそらく賢治の中になにか悟りに近い大きな変容が 起きたのではないかと思いました。 そして賢治の臨終の時のエピソードを読み返し、ハッとしたのです。 つまり「グスコーブドリの伝記」は賢治の決意表明ではないかと。 或いは決意表明とまではいかなくとも、 自分が生きる道はこういうことしかない、とある種の覚悟と決意をした。 あの大きな暗渠のような挫折の中で、賢治は 求道の人とか自己犠牲の人となどいうような、甘いものではなく、 もうそこにしか自分の希望を見いだせない、或いは そうでないと、自分の生きようとするエネルギーが もう湧いてこない、という ぎりぎりのものではなかったか、思います。 そのぎりぎりの自分を生きながら、自分を突き放して相対化し 何がどうであったか、自分のつまづきの原因は何であったかを 賢治は真剣に考え、正直に一つずつ一つずつごまかさずに 向き合ったのではないかと思います。 本当は何年も、もしかしたら何十年後にしか気づけないことも 賢治はごまかさずに検証したのではないかと思います。 そしてあの真っ青な空のような境地にいたったのではないかと 思います。 そしてそれは、 まさしく最後、亡くなる寸前、 正座して律義に農民の前に座る賢治の姿の中に、 まるで灯火のように映し出されていると、思いました。 最後の賢治は、昭和8年9月19日夜、花巻の祭りの最後の日、 夜更けに帰る神輿を自宅の店の軒下で迎えていました。 勿論体は衰弱しています。 それを見た農民のひとりが「先生はもう丈夫になられた」と勘違いして よく20日朝に肥料相談に訪ねてきました。 賢治は居住まいを整え、数時間その農民の相談に応じました。 そのあと、急に呼吸が不全になり、来診した医者は急性肺炎の兆しがあることを 告げました。しかしその夜、もう一人農民が肥料相談にきました。 家人達はハラハラしたのですが、賢治は 「そういう用事なら、会わなくては」と着物を着換えて店の板敷に正座をして 相談者の話に応じました。 その姿は、足がどんなにしびれても正座を崩さない賢治であったと 荘已池氏が書いています。 その翌日、賢治はとうとう逝ってしまいました。 拙著「空飛ぶ宮沢賢治」のあとがきに私は もう賢治は民衆に自分をあげたのだと、書きました。 人々の前に自分を差し出す賢治。 そこにはもう何の執着もなく、皆と共に生き、遊び、働き、すべてを やり切った賢治がいるのではないかと思います。 それは あの詩「雲の信号」のように 「あゝいいな せいせいするな 風は吹くし 農具はピカピカ光っているし」 そして 「わたくしは、このちひさなものがたりの幾きれかが、 おしまひ、あなたのすきとほったほんとうのたべものになること どんなにねがふかわかりません」 の賢治、 です。 ~終わり~ ![]() #
by denshinbashira
| 2022-02-08 06:20
| 宮沢賢治
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2022年 02月 07日
さて、ここからが宮澤賢治という人の素晴らしさなんですよ。 この事を是非お伝えしておかなければね。 河本義行の死を含めてというか、それを超えて、 賢治は今までを総総括したうえでの、 次の人生をはじめるつもりであったと 思います。 それが 「グスコーブドリ」の世界です。 今度こそ、ほんとうに 皆の幸せのために自分を生きようとしていたのだと 思いますよ。 そしてね、 もし、賢治が凡庸であったなら、あの挫折と自己瓦解のあとですから、 もしかしたら作家や文学者にありがちなクールなニヒリストになったり、 虚無や人間不信や、大衆に対する絶望に陥ったかもしれません。 ところが賢治はそうではありませんでした。 ニヒルになったり、ひにくれたりしないのです。 なぜなら賢治こそは「知性」の人であったからです。 「知性」とはたくさんの知識を知ることで、 視野を広め、考察を重ねる中、 そこから精神の崇高さや、こころざしの高踏さや 大きな「人間愛」をもつことでも、アリマス! 賢治のこころにある透明度や真摯なものがそうはならず、 逆に、おそらく賢治は気づいたのです。 自分は農民やその社会を救おうとしたが、それは まさに自分を高みに置いてのことであり、 農民や社会に対する上から目線の改革であったことを。 深層心理的にいいますと 他者や社会を救いたがる人間は、自分では気づかないが、 その深層心理に、心理的な抑圧やストレスや無力感を抱えている人間が 他者や社会にそれを投影し、 その代償行為として、メシア症候群、 いわゆる<人を救いたい症候群>に陥るのです。 おそらく賢治も、その深層心理には父親に抑え込まれた抑圧や、 自分を思うように発揮できないストレス、 さらに自分には生活知が欠落していること。 例えばお金を稼ぐ能力に欠けるという無力感などがあり、 それが彼の観念的な世界知との混同のなかで、 トルストイを真似、改革者かつ、 菩薩的な人間になろうとしたのではないかと、思います。 ただ、それはある種の短絡でもあり、ことごとく失敗しました。 そしてやっと気づいたのは、 そういう上から目線ではなく 現実を厳しく凝視する自分になること。 科学者としての冷静で厳しい現実認識の中に生きること。 これはまさしくカンパネルラの父親のあの冷静さに投影されていますし、 もしかしたら法華経の「常不軽菩薩」のように、 上から目線ではなく どんな人よりも自分を下位におき、そこで生き、 人々の役に立つ人間になろうとしたのではないかと 私は思います。 深い傷から自分を立て直しながら、 そういう決心をしていたのではないか、と思えるのですよ。 傲慢に社会を変えるとか、民衆を啓蒙するとかではなく、 自分を必要としてくれる人々に寄り添い、 ささやかに、謙虚に、自分が得た科学(化学)の知識を役立てる。 そういう風に大きく舵を切ろうとしたように、私は 思います。 そしてもう一つ賢治の大きな失敗がありますね。 それは、保坂嘉内との決別の原因になった 「国柱会」への●熱狂です。 親友の嘉内に法華経「国柱会」への勧誘を断られた時、 賢治はそのアイデンティティーが崩れたと思います。 だからこそ、反対に熱烈に嘉内を国柱会へと 連れ込もうとしたのです。 また、一方でふる里韮崎で農業青年を育成するという嘉内の姿、 そしてあの岩手山での熱い二人の誓いのためにも 賢治は「羅須地人協会」を起こし、ほんものの百姓になろう、いや、 ならねばならない、といういわば強迫的思い込みへと 追い込まれたのではないかと思います。 しかしそれもみんな砂上の楼閣のごとく、 賢治の言葉を借りれば、蜃気楼のように崩壊していきました。 そして本当に折れ、身も心も疲れ果てて病気になり、 賢治の言葉、 「今ではもうどこへも顔を出すわけにはいかず殆ど 社会から葬られた形です。 それでも何でも生きている間に昔の立願を一応段落つけとうと 毎日やっきになっている所で我ながら浅間しい姿です。」 の自分が、それでも自分が立てた「立願」を失わずに これからどうやって生きてゆくかというときに もしかしたら「常不軽菩薩」の姿が浮かんだのかもしれません。 つまり賢治はこの病を直し、次は本当に 自分のコンプレックスの裏返した上から目線でもない ミザントロピーでもない、 農民の、そしてみんなのために、 ほんとうに、自分を投げだした生き方をしようとしたのではないか、と 思います。 それは河本義行が同僚を救うために死んだように、 純粋な心と謙虚な行為を持って人々のために生きようとしたのだと 思いますよ。 ところがもう賢治の命のエネルギーはそうは多くはありませんでした。 次回はそのことを書きます。 ![]() ![]() #
by denshinbashira
| 2022-02-07 06:47
| 宮沢賢治
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2022年 02月 06日
さて、これから大切なことを書かねばなりません。
「銀河鉄道の夜」二次稿、三次稿にあった、それまでのいかにも 賢治らしいメッセージが、四次稿では全部消されています。 たとえば、明らかに相対性理論を意識したメッセージ 「「ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ。 お菓子や三角標も、みんないろいろに組あげられたエネルギーが、 またいろいろに組み上げられてできてゐる。 だから規則さへそうならば、ひかりが お菓子になることもあるのだ、 ただおまへは今までそんな規則の ところに居なかっただけだ。 ここらはまるで約束がちがうからな」 や、 「もしおまえが本当に勉強して実験でちゃんと本当の考えと、 うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえ決まれば、 もう信仰も化学と同じようになる。」 や 「「おまえは夢の中で決心したとおり、まっすぐに進んで行くがいい。 そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」 「僕、きっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます。」 ジョバンニは力強く言いました。 「ああ、ではさようなら。これはさっきの切符です。」 などなど、その他にもたくさんの、 ●いわゆる賢治らしいメッセージが そぎ落とされてしまっているのです。 こういう希望に燃えたラストの代わりに、 カンパネルラの死と、彼のお父さんとジョバンニのやり取りが つけ加えられました。 それはなぜか・・・・。 私はこう分析します。 おそらく賢治はもう、 そういうことを書く気になれなかった。 昭和6年、賢治の理想、希望、そして切なる思いが、 すべてガラガラと瓦解していきました。 「羅須地人協会」を立ち上げてから、次々と賢治を追い詰めた、 現実の壁の高さ、大きさ、そして強固さの前に叩きのめされた賢治が そうは簡単に、そうは安易に、そしてそうは楽天的に 書けるはずがないのです。 自分は世界の知識にたけ、 天文学や地学や数学やそして物理世界も文学、芸術せかいにも 通じている。しかしそれは、 現実の前では空回りし、実効性を持たず、 さらに言葉は宙を舞うばかりであった。 だからこそ、冒頭の「午後の授業」では、 ジョバンニもカンパネルラも、 星座の知識をしっていても、 もしかしたら相対性理論すらも知っていても 口を閉じ、 わかっていても、言わないという判断と態度を している。 更に第四次稿の最後は、 川におちた友達ザネリを救おうとして水死したカンパネルラを 捜索する中、 本当はもうカンパネルラは死んだということを知っているにもかかわらず、 ジョバンニは、それをカンパネルラのお父さんに言いません。 そこには、何だかもう軽率に口をきけなくなった(書けなくなった)賢治、 口を閉じ、 その失敗と挫折の重さの桎梏から抜け出られていない賢治の 深い絶望を私は感じてしまうのですが。 そしてこのラストには、もう一つのエピソードがあります。 それは彼の盛岡高等農林時代の友人、河本義行が 川でおぼれそうになった同僚を救おうとして、 水死したという知らせです。 ただこれは、賢治が亡くなる二ヶ月前にことであり、 それを知った賢治が「銀河鉄道の夜」に取り入れたかどうかは不明です。 河本義行はあの高等農林で賢治たちが出した同人誌「アゼリア」の 大事な仲間であり、 その年の年賀状には 「ご無沙汰いたしました。この数年意気地なく疾んでばかり居ました。 お作拝見したう存じます」昭和八年一月一日 という文が添えられている。 ただ私は、 このラストはもしかたら河本への賢治の追悼かもしれないとも 思います。 そしてこの河本の犠牲的な死も含め、ここから、賢治の「次」が 始まろうと仕手いたのではないか、と思うのです。 では賢治の「次」とは何か、を 次回書きます。 ![]() ![]() #
by denshinbashira
| 2022-02-06 09:13
| 宮沢賢治
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