あでやかなり、百合の花! |
今日は百合の花を描きました。
白い花をどのように描いたらいいのか
わかりません??
赤い花はなんとか描けました。
水彩は日が経つにつれ、紙と絵具と水が一体化してゆき
表情を創ってくれます。
一週間くらいたつと
生々しさが消えて
もっと落ち着くと思います。
それにしても
百合の花のあでやかなこと!
うらやましいです!
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2013年 06月 25日
お絵かき教室に行ってきました。
今日は百合の花を描きました。 白い花をどのように描いたらいいのか わかりません?? 赤い花はなんとか描けました。 水彩は日が経つにつれ、紙と絵具と水が一体化してゆき 表情を創ってくれます。 一週間くらいたつと 生々しさが消えて もっと落ち着くと思います。 それにしても 百合の花のあでやかなこと! うらやましいです! #
by denshinbashira
| 2013-06-25 20:15
| 伝心柱マガジン
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Comments(1)
2013年 06月 25日
自分が書いた賢治についての原稿を
推敲しながら つくづくと よく似てるなあー そっくりだあ~・・・と 思います。 もちろん 賢治にあの煌めくことばの世界には 遠く及びませんが、 内向し、煩悶し あがき苦しむさまは 私も賢治そっくりで だからこそ わたしのすぎ越してきた日々の そこには 賢治の愛した マグノリアの花が 崖いっぱいに咲いている・・・と 私は思います。 子供のころから疲れやすいなあーと 思っていた私は どうも腎臓がよわいらしく それは死んだ母につきそってやった 健康診断で、 ほんとに近年になって はじめて わかりました。 今でもほんとに 疲れやすく ああ、子供のころに たくさんのストレスをうけていたのだなーと 今更ながら思います。 でも 賢治さんがどうしても越えられなかった 現象としての私・・・と 人間の心の問題 感情の問題 そして死後の世界の問題を 私は現代に生まれたおかげで、 脳の研究をはじめやその他の科学、学問の 目覚ましい発達の おかげで そこをも 越えることができました。 死後私は肉体が解体され 分解して元素になり宇宙に帰って行くだけです。 そこには 私の想念も精神もすべてが 消失してしまい せいせいして 私は消えてしまいます。 私の想念も感情も精神も ただ 自我が この世の世界をうつしだす 鏡にすぎません。 有機的な肉体は その鏡に自分を映しながら 自分の行く先へと 導かれていきます。 それが わ・た・し・・・という 現象で 私はいかにその鏡の中の 汚れや 曇りを ふき取ってきたか・・・と いやふきとるために 煩悶し あがき 苦しんだかと 思います。 今も若干苦しいですが・・・・笑! でも わ・た・し・・・という現象も おもろいです。 自分をポーンと突き放して 遠くから眺めると なんとも 世の中も それに反応する自分現象が オモロイです。 しかし 世の中のことは もういいです。 目先の世の中のことは もう いいかなあ~! 先日 ベットに寝転んで じーっと 天井を見ながら考えている時 ああー人間社会も その全体が さまざまなる部分と 不連続に連続しながら ゆっくりと まあ のっそりととでもいいますか そういう風にしか変われないのだと 思いました。 いや変われない・・と言う発想ではなく、 そういう風に しかし 変わってゆくと 思いました。 ミクロ的な変化が やがてマクロ的変容への極点へと マクロ的な極点へとさしかかるとそこに 一挙に全体の変化=共時性(シンクロニシティ)が 起こります。 いわゆる、機が熟していくということです。 だから 少ずつ変容していくしかないない・・という 限界を 見極めがつつ、 でも おそらく 人間はそこを目指して その 覚醒をめざして 歩いてゆくと 思います。 自我と自我がぶつかり合う世界が いつかは その自我たちが もっと高邁な精神せかいへと 止揚されていくためには まだまだ100年200年 もしかしたら 1000年 かかるかもしれない! と そう見極めがついたのです。 その時はきっと誰もが 自分は 自分という現象だと もう 当たり前のように そう 思うでしょう。 自我が解消されてゆく世界は 欲望も解消されてゆく世界です。 必要なことを 必要なだけ 必要とする世界です。 その時こそ人間は 他の生きとし生けるものたちとの 自然との 森や林や海や空との その全体が 同調し 交響し そして 賢治が愛した ささやかに生きる その世界が 開けてくるかもしれませんね。 さてと、 私も 今日一日を ささやかにいきるとしましょう! 一瞬を極めて 咲いている~! 愛らしいね~。 #
by denshinbashira
| 2013-06-25 07:25
| 夢から醒めるということ。
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Comments(2)
2013年 06月 24日
もう削除してしまいましたが
一週間前おきた質問に関する一件で ちょっと私はがっくりしてしまい 以来なかなか言葉が下りてきません。 このブログではずーっと 私たちの深層心理を解き明かし 私たちが捉われている ・通俗的な想念や常識や 人間社会が作りだした秩序のための 規範などの ・既成観念に拘泥、呪縛されることなく 自分本来にある感覚、感性、直感をフルに働かせ ・決して自分を裁いたり、責任を追及したり 罪悪感などで自分をがんじがらめにせず ・自分の生命力がはつらつと 自由に、愉快に快適になるように 自分を解放し ・自分の人生は 自分で創造的につくりだしてゆくものだ・・・・と もう8年近くも書いているのに 正直その 質問には ほんとに がっかりしました。 (でも、反応してがっかりする私は とても人間臭くていいです…笑!) それで 言葉が降りて来ない間、 これまで書いてきたことを 紙媒体にしようと まず”宮沢賢治”のことから その作業を始めましたところ もうずーっと以前に書いた ”銀河鉄道の夜”の中の 『プリシオン海岸証明』という文のなかで 私が書いたことの中に その説明、答えに近いものがありますので 再度のっけて起きます。 ○ 詩「春と修羅」の冒頭にある、 「わたくしという現象は」というように 人間は自分というものを絶対不動の認識のごとくあるように錯覚するが、 それは単なる時代の共通認識の産物で、実は、 刻一刻と変化する人間という現象に過ぎないと、いっている。 これは賢治の先見性の鋭さで人間とは、 人間という物質の中を、 生命エネルギーが通っているとき その人間という物質は生きて活動するのであり、 エネルギーの充満が過ぎたときに、 「死」があると私は思っています。 そのエネルギーの管理をしているのが「脳」であり、 脳は「生命保全のために、自我を所有している」と 思うのです、。。。私は。 賢治は人間のあらゆる認識は相対的なものに過ぎず、 春と修羅では、その生命エネルギーを、 「有機交流電燈のひとつの青い照明です。」と言っています。 そして自分達が絶対・と信じているものも、 因果の時空制約のもとに感じているに過ぎない。としています。 たとえば2000年前には青空いっぱいに、 孔雀がいたと思われていたものが現代では 銀河系宇宙であると、証明されたように、 その証明をすれば、 単なる人間という現象においては、 いっさいが平等であり、 いっさいの序列、格差 優劣が無効化する。 その人間が単なる現象であるということさえ証明し、 人間から受容されれば、 人間は本当の幸せになれる・・・のではないかと 賢治は思い込んでいたのではないかと 私は思うのです。 ちょっとややこしくなりましたね・・・! 人間は自分で生きていると思い込んでいるが、 実は第四次元(ジョバンニが持っていた切符)から 送られてくる透明な宇宙エネルギーで 生かされているのに過ぎない! そしてそれは人間の自我の意識の埒外にある・・・。 人間のさまざまな感情も想念も、 その生命エネルギーを保全するための、防衛の機関に過ぎない。 それは時にゆがめられ、汚された自我となる。 がしかし元は透明な電気エネルギーである・・・?! だからすべての人間は自分も他者も、自我意識で縛りあうこともなく 貶めあうこともなく、平等に生きよう!と賢治は必死で訴えますが、 それが理解されるには時代が成熟していませんでした。 今の時代においてさえ、 このことを理解でくるものはほんの少数です。 。大変難解な世界に入っていきましたが、 賢治の本領はここを理解すると、大変わかりやすくなります。 今でこそ人間は自己幻想の中に生きているということが、 わかっている人にはわかっていますが、 賢治の頃には途方もない事でした。 がしかし老子、ブッダ、道元、そして 多くの思想家、宗教家には、 それがわかっていたふしがあります。不思議ですね。 ブッダなどは紀元前400年の頃にもう、 おおよそこれと同じような事を認識していたらしいから不思議ですね。 ○ 人間はお互いが 自我のレベルで争い葛藤します。 それは 自我自身が他者との対立軸をもち 対立を記憶の中に 持ち込むからです。 しかし 自我の汚れがだんだん取れていくと 自分をそのまま受け入れられるようになり また 自分の自我と対する他人の自我とが 対立をやめ とんがったものがだんだん平らに なって行きます。 自分と他人が不連続に連続する 命の現象であることが わかってくる時 やっと心の中に平安が 訪れてきます。 その平安をもとめて 人生があり 人生のプロセスにこそ その答えがあると 私は思います。 ああー 少しずつ 言葉が降りてきましたね~! やれやれ では また。 梅雨なのに なんて情熱的なんでしょう この花は! #
by denshinbashira
| 2013-06-24 10:02
| 夢から醒めるということ。
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Comments(1)
2013年 06月 14日
陸、「人は疲れたか」。
王、「疲れました」。 陸、「馬も疲れたか」。 王、「疲れました」。 陸、「露柱も疲れたか」。 この問答で 王常侍が 「露柱もつかれた・・・。」と はっと気づいた瞬間から 彼の意識の”閉鎖性”が取り払われ 大いなる客観性が生まれたときで そこには 延々と解放された世界が広がる。 その閉鎖性が解き放たれたときから 意識は 自在な意識へと変化し 自己とは すべてに投影される自分自身である事を 発見した瞬間から 自分は際限のない広がりの中にある。 それは人間だけではなく ありとあらゆる 柱にも 用意された お茶の中にも 庭の雀の中にも 晴れ渡った空の中にも 自分をとりまく すべての中に 自分が写し出されているのだ・・という 覚醒が おきたのである。 つまり世界は 我が掌の中にあり 世界に自分をどう注ぎ込み どんな姿を映しこむかも すべて 自分しだいであること。 さらに その世界に現れる他の人間も 自分の意識が翻訳し映しこんだ 人間たちの姿であり すなわち みんな、 自分の分身であることが 分かってくる。 自分が変われば 世界も変わる。 自分に固執すれば 世界は 変わらない! 自分の世界を狭小な 自我の世界に閉じ込めているかぎり そこには 自我と自我の対立と収奪しか ありえない! 自分に都合のいい自分と 自分にとって都合の悪い自分が 他人の自我の姿を借りて 自分の中で対立し続ける。 自分が憎み続ける相手は 実は 他人の姿を借りた自分自身であり 自分が否定し続ける自分も 同様な自分である。 自分が受け入れる他人は 自分に都合のいい自分で 人間は常に 自分とだけ 向き合っている・・・・。 王常侍が 「露柱もつかれました。」という 悟性を獲得したとき 今までの その息詰まるような 自己世界、 つまり 自分と自分が確執する世界に ポーンと穴が開き 大きな客観性がうまれ、 小さな小さな自分の姿が 見えてくる 自分に固執する ”私が、私が”・・・という世界が つき崩れてゆく。 ”私”・・・は ありとあらゆるところに 投影されて 偏在し それは 私によって 自在に変化させることが できる。 つまり ”私が、私が”・・・という 自我意識の番人、 その番人の 偏狭な防衛の意識を 取り去ったときこそ なんともさわやかで せいせいした清清しい意識の中に 生まれ変わるんですね。 あの夏目漱石が行き着いた ”則天去私” 自分を信頼し 自分の心に任せきる世界が 生まれてくるんですね。 人間は 人間が作り上げた閉鎖性の意識。 自我が取り仕切る 自分という閉鎖性の中にいる限り 意識は限定されてしまう。 意識、すなわち 自覚された認識は 無意識の海の中に流氷のように浮かぶ 自分認識の断片のようなものであり、 そこに大きくて 深く 鋭い ”客観性”を与えない限り その断片を真実と 或いは 世界だと 思い込んで生きてしまいます。 しかし私達は ほんとうは 無自覚の無意識の海のなかに 生きている。 岩田先生の素晴らしい言葉を借りれば 「非日常のなかに日常の時間が 影のようにゆれているのである。」 という 世界を いきています。 そして その無自覚な無意識の海のなかこそ 豊かな栄養も 資源もたくさん詰まっている。 「露柱もつかれました!」という 覚醒が それは頭だけで理解したものではなく 体ごと はっと 気づいた瞬間から 現れてくる 世界です。 ただね、 断っておきますが 私達はその事を 理解したからといって 直ちにそこへと到達できるわけではないです。 そこへ到達するには、 いくつもの煩悩の海 煩悩の山を越えなければならないです。 しかし いつかはそこへといこう・・・・・と 自分の舟の舳先をそこへ向けること。 自分の意識は たかだか自分の思い込みに過ぎないということ。 自我の要求に執着せず その閉鎖性を常に開いておこう・・・ということを ”こころえていれば” いいんだと 私は思います。 私自身もまだまだ 自我の汚れの中におり 自我にしっぽを捕まれては 迷い 動揺し 煩悩の海に浮かぶ 流氷です。 でも 自分の意識の世界など たかが知れている・・・と 心得ておこうと 思うのです。 命の本質は 自他の境目を越えて 不連続に連続する 働きです。 私も いつかは 自分という 狭小な容器を 脱ぎすてて 海に浮かぶ泡つぶのように 自在に 自由にいききれば と 願っています。 そうなると いいなあー!」 今日も朝から雨が降って やっと梅雨らしく なりました。 #
by denshinbashira
| 2013-06-14 07:57
| 夢から醒めるということ。
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Comments(2)
2013年 06月 13日
自分が
自己完結した世界である・・ということは 世界すべてが 自己の掌の中にある・・ということでも あります。 つまり 私達はそれぞれが この世も世界も宇宙も 所有している・・ということでも ある。 もっと言うなら 自分のローカルな世界の先には 延々と世の中が広がり 世の中の先には世界の国々や 地球全部が広がり その先には宇宙が広がり つまり 果てしなく広がってゆく世界の 空間と時間を 手にしている・・ということです。 私たちが 意識で認識している世界 物理的視野に入る世界は 限定してしか見えないけれど 無意識のせかいと その想念の中に広がる空間の連続性は 果てしない・・ということです。 私達は その広々とした果てしない世界の 時間と空間の交叉する座標軸の中の 一点に生命を結んでいるが しかしそこは 四方八方に自在に広がり 永遠に流れ、 過去と未来を行き来する可能性が 往来通過する一点でも ある。 道元のいう ”全機現”とは チャチな自分世界での全体では ない。 自分を起点として 自分を遥かに越えた 果てしない大いなる世界へと広がると同時に 一点としての自分に収斂していく 壮大なる 全体の動きでもある。 まさに それは古来からの 様々なる求道者たちが夢見た、 尽大地、 尽虚空の すべてを凌駕包容する 仏道、 仏の世界でもある。 ひとつの種の中に すべてが孕まれているように わたし達の命の種のなかにも 自分の全体が孕まれ 自分が開花して行く。 そしてそれは この世界 この宇宙全体の中に 孕まれて 命が開花してゆくということは 人間の命だけでなく 植物も動物も また自然も星も すべてが 生と死の 不連続に連続する 大きな 全機現の中にある。 つまり 人間の意識を取っ払い 命の属性だけでいうなら 人間の命もその大きな全機現のなかで 花や木や動物や自然と不連続に連続する 現象でもある。 私達は 意識という 限定されたフレームの中で 生きようとすると それはホントウに 縛りにみちたエゴの 息苦しい世界であるが しかし 意識を超越した 命の世界で生きるとき もはや 人間という輪郭が取り外され ただひたすらに 生きる・・・という 命の自立性の 無心と 無限の中に浮かぶ事が できる。 意識を超越するとは 王常侍さんのように 「露柱もつかれた!」という 世界を 手に入れることです。 おおいなる 客観世界です。 人間世界という 合わせ鏡の中の 小さな小さな 自己完結の世界から 大きく飛躍していくには 合わせ鏡の中に 自分以外の他者や世の中や 世界や宇宙までもを 取り込み そこから 自分を解き放つ作業が必要です。 それには 自我の支配する ちいさな ちいさな 人間のエゴの世界を どう克服するかでもあります。 エゴの中には 対立と収奪しかありません。 その対立と収奪を越えて 不連続に他の命と繫がっていくとき ひとりではない自分 不連続に繫がる 大いなる座標軸のなかの 結び目の 私がいます。 それはまるで 宮沢賢治の童話「インドラの網」の 天いちめんに張られた 帝釈天の宮殿の周りのネットの 結びめの宝石のように お互いが映しあい 無限に輝くという世界です。 ここにある宇宙観は すべてのものは関係しあい お互いがお互いを映しあい 響きあい、 相似も相違も違和も混乱も 森羅万象すべてが あらゆることがすべて必然であるという世界観のなかに 自分がいる・・ということでもあると 私は思うのです。 たいへん難しい話になりましたが、 小さな ちいさな自分の殻を 脱ぎ捨てて 透明に輝く 自分の本来の命に 目覚めて 私も はつらつと生きたいなあーと 思います。 一重のバラです。 #
by denshinbashira
| 2013-06-13 11:00
| 夢から醒めるということ。
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