能勢監督との話、希望について4、人の力で作り出す産業が生まれる。 |
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2023年 05月 04日
これからは確実にAI社会に入って行き、 圧倒的多数の人々は、その社会に組み込まれていくでしょう。 しかし、社会は恐らく二極分解していくのではないか、と私は思っています。 圧圧倒的多数の人々はAI社会に吸収されていくでしょう。 そしてAIが作りだす価値の社会になって行くその一方で、 少数ではありますが、 人間らしさとは何かを追求する人々や、 人間が作り出す価値の産業も生まれてくると考えます。 そしてそれはもう、萌芽し、確実に価値を生み出してきています。 それは新しい人間の文化と、 新しい経済の形を作り出してゆくと 思います。 突然の夫の発病で介護に明け暮れる中、私の気持も少しばかりすさみ、 現代社会に対する、厭世感や絶望感に陥りましたが、 能勢さんと話す中、 映画「どこかに美しい村はないか」の先に見えている希望を更に皆様に発信せねば、という思いが 湧いてきました。 自然栽培のお米作りも、林檎栽培も、その他、人間が手を掛け、 自然と協働して作りだす製品こそ、 高い価値と収入をもたらすと思います。 それは今の大量生産と大量消費と飽食の経済ではない、 ホンモノをつくり、 その価値に対する対価を払う経済を作り出していくと、思います。 そのことは同時に、 これまでの大量消費経済にどっぷり浸かっている人間にも その生き方を問いかけるものになると思います。 皆様にはとても想像がつかないかもしれませんが、 映画「どこかに美しい村はないか」のあの世界の再現は、 ありうるのです。 そしてそこにはもう一度、 茨木のり子氏のあの詩の 力強い人間の力を取り戻してゆく人々がいると 思います。 皆様には、田下さんの妄想かと、 思われるかもしれませんが、 ありうるのです。 今能勢監督が撮り、編集している映画には、その事が描かれています。 ファンタジーではなく、 具体的で現実的なものとして、 それは、ありうるのです。 #
by denshinbashira
| 2023-05-04 08:51
| 終わりを意識して書く
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2023年 05月 02日
娘に聞いた話では、韓国ドラマを見ている人のコメントでは、 かなりつっこんだものが多いそうです。 それだけ真剣に見ておられると言う事でしょうか。 なんだか世の中がどんどんペラペラになっていくね〜と。 一方で、韓ドラを見ている人も多くおられる、と言う事は、 やっぱり人間の本質的中在り方や生き方を探している人達もいる、 という事ではないか、と話しました。 私も時々絶望感が湧くのですが、 なんとか頑張って人間のことを書こうと思いました。 能勢監督との話、希望についてその2 Gセブンが終わりAIの技術革新が進むに従い「責任あるAI」が共同声明として出されました。 また、民間企業のアイスペースが月面着陸を失敗しましたが、 更に更にエネルギーと資源の開発をして、 人間の欲望を果たしていこうというものです。 一方では、少子化問題は深刻化するばかりです。 ほんとうに、それでいいのかなぁ〜と私は考えます。 AIについては日本でも初の量子コンピュータが作られました。 量子コンピュータは今のデジタルコンピュータにくらべものにならない大量のデータを以って即時に仕分けし、統計、分析して答えをだしていきますから、 もう人間の比ではありません。 ありとあらゆる場に浸透してゆくでしょう。 もしかしたら、AIが 浸透してゆくと、アッと言う間に人間がAIの下で、 労働力のロボット化にされてしまうかも知れないと、心配します。 なんだか日本人のAIに対する認識が甘いのが気になります。 極論を言います。 もし映画「どこかに美しい村はないか」で描かれているような世界にもどったら、 人間と自然との協働する世界に戻ったら、 すべてとは言いませんが、色々な事が解決されます。 それは人間が滅びず生き残っていく為の知恵だと私はおもいます。 更にそこに、希望がある、と 私は考えますが…。 つづく。 #
by denshinbashira
| 2023-05-02 07:13
| 終わりを意識して書く
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2023年 05月 01日
このシリーズは、わたし自身の死(終わり)を明瞭に意識し、 思うところを存分に書きました。 テーマは二つです。 そして、無限の経済成長などない、ということ。 頻繁に災害が起き、 こんなに自然がもがき悲鳴をあげているのに、 まだ人間の欲望に駆られた文明を進めるのか。 もう抑止しなければならないことに 気づかないといけません。 もうひとつは、その欲望を沸き起こす人間の自我の問題は、 脳の構造から来る事。 人間の遺伝子は変えらない。しかし 人間は、 その理性を以て、自我と闘うことができる。 もがきあがき自分の自我の欲望と戦い、 懸命に生きる時、その先には光の出口があること。 人間は、人間になる為にその歴史を綴ってきたこと。 単なるお互いを喰い合う動物ではない生きものになる為に、 理性世界を構築したはずだ。 しかし、この先にくるAI時代においては、 人間は、もがきあがくことすら失ってしまうかもしれない。 AIや機械を媒介にしたよそよそしい人間の世の中になるかもしれない。 以上のような危機感を持ってかきました。 他の生命を喰らって生きるしかない人間だからこそ、 傲慢になってはいけない。 人が殺しあう戦争も紛争も、 その意味の無い殺し合いは、 他の生きもの達に比べて、 なんて恥ずかしいことをやっているのでしょう。 今人間に必要なのは、他の生きものには無い 脳の前頭葉を駆使して 賢く、そして慎み深く考える人間になることです。 欲望を広げるのではなく、 欲望を抑制する。 自然も生きものも、全部を生かすためにです。 その為に、私達は、高邁なこと感応する脳を、 獲得したのですから。 #
by denshinbashira
| 2023-05-01 06:26
| 終わりを意識して書く
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2023年 04月 28日
先般亡くなられた作家大江健三郎氏も、 人間の無意識にある高邁な世界をなんとか言葉にするべく頑張れました。 困難な難易度の高い仕事であったと思います。 もし漱石にノーベル賞の話が来てもおそらく彼は、 「そんなもんいらないよ」と一蹴したと思います。 おそらく漱石にとっては、いかなる権威も権力も関係ないところで、 小説を書いていたのではないかと、 思います。 彼も良寛が好きでしたからね。 私がそう思う訳が二つあります。 ひとつはシリーズ3「夏目漱石が見た西洋近代と未來」で書きましたが、 漱石は西洋には幻滅し、失望しており、 むしろ東洋の哲学や思想性を高く評価していたと思います。 多分西洋人のくれる賞などにはなびかなかったと思います。 もうひとつは、漱石はむしろそういう通俗的上昇志向を嫌い、 むしろ反骨な使命感を持って作品を書き続けたと思います。 それこそ至純至精に、です。 賞なんてものはどうでもよく、 それに関しては、 シベリアから帰ったドストエフスキーもおそらく同じだったと思います。 その立ち位置だからこそ、人間がより深く見えていたと思います。 通俗社会に距離をおきながらも、 深く厳しい目で人間を見ていた二人の作品の底に流れているのは、 人間に対する愛情です。 ただひたすらに、 自分の思うところだけに、 頭を駆使し、エネルギーを注ぎこんで人間を書いたと思います。 人間の欲どくしさや、いやらしいことや愚かしい事などに辟易しながらも、 ドストエフスキーなどは 死刑にされそうになったのですから 二人とも、絶望感も厭世感も並々ならないものがあったでしょうが。 それに悩み嫌悪しながらも、 人間が生きるほんとうの価値を 見ようとしたと思います。 故に、作品は深い陰影を持ち、厳しく暗渠を描くものになりました。 私が言いたいのはそういう使命感を持って生きることの凄さ、素晴らしさです。 それこそ、非凡中の非凡です。 見習いたいです。 人生をかけて漱石もドストエフスキーも、その使命を果たしていきました。 だから書く事以外のあれこれは無用なのです。 漱石は高名になり文部省から博士号を送られましたが、断ります。 また同じように、 時の総理大臣西園寺公望からサロンに招かれますが、断ります。 その時断った手紙の端に 「時鳥 厠半ばに 出かねたり」 と句を打ちます。 今、トイレの最中だから、出られません、と。 面白いね! 時鳥(ホトトギス)とは、漱石流アッカンベーではないか、と私は解釈しています。 時鳥は、もとは田植えを告げる鳥であり、一方では死を告げる鳥でもあり、親友の子規の名は、ホトトギスから由来したものです。つまり、 わしゃ、お前たちのような俗物とは、交わらん、と。 痛快でしょう! この痛快さ、 このあっけらかんさこそ、 私達が漱石に見習うべきことではないかと思います。 漱石が描いているのは中間インテリ層ですが、 それはその層が最も漱石にとってリアリティがあったからです。 しかし彼は、 コイツらがいちばん病んでると思っていたのではないでしょうか…苦笑。 私は、漱石の殆どの作品を若い時に読んだので、これからもう一度読み直しをしようと思っております。 その時、インテリ層では無く、社会の底流を支える々を、 漱石がどのように書いているのかに注目して読み込みたいと思っております。 そうしてもうひとつ特筆すべきは、 ドストエフスキーも漱石も、 なんと女性達をイキイキと描いていることか! 先般読み終えた「明暗」にでてくるお延も、お秀も、清子も、 書いている漱石の筆が踊っています! そして負けずにドストエフスキーも、女達を書くペンが踊ってます。 「罪と罰」のソーニャもドーニャもちょっと狂ったカーチャも、 なんて素敵なんでしょう! さらには「カラマーゾフの兄弟」にでてくる妖婦グルーシェンカも、ヒステリーのカーチャも、 みんな逞しく、力強く、素敵です。 私は漱石もドストエフスキーもどこか女性を尊敬していたと思います。 奥さんの鏡子さんに対しても、 女には、かなわないなぁ〜と思っていたかもしれませんね。 次回はあとがき2、を書きます。 あとがき2、なんて聞いたことない、なんていう人もいるかもしれませね(笑) でも、ちょっと厳しい事を書きます。 #
by denshinbashira
| 2023-04-28 07:47
| 終わりを意識して書く
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2023年 04月 26日
どうやら漱石は、ドストエフスキーの作品を殆ど全部読んだらしい、と江藤淳氏が書いていました。 やっぱりそうだったのか。 それで漱石の「則天去私」の思想とドストエフスキーの行き着いた地点とが似ていると思った事の合点がゆきました。 ドストエフスキーの最後の作品「カラマーゾフの兄弟」のテーマは父親殺しです。 誰が父親を殺したのか? 最終的には、父親殺しの犯人と思われる婚外子のスメルジャコフは自殺し、 長男のミーチャ(ドミトリー)が、犯人の濡れ衣を晴らせないまま判決をうけ、シベリアに送られます。 なぜドストエフスキーは、こういう結末にしたのか。 苦しみ苦しみ抜いたドストエフスキーが、最後に辿りついた結論が、 人間の業は消す事はできない、しかし、その先がある、という事ではなかったか、と私は思うのです。 ミーチャは、ほんとうは気のいい青年ですが、 金銭も、生活もだらしなく、放埒に生きています。 言動も支離滅裂です。 ただ周囲の目から見ると、遺産争いの中、金に困っているミーチャがいかにも父親を殺しかねないようにみえます。 そして彼の婚約者であったカーチャが 彼を犯人とする決定的な証言をしてしまいます。 それを覆す証拠もないまま、ミーチャに判決が下ってしまいました。 ミーチャはこの判決に従うしかありません。そしてシベリアに護送されていきました。 ただ小説の行間から見えてくるのは、ここからが始まりだよ、と言っているドストエフスキーです。 自分の業のまま、放埒にやりたい放題のことをしたミーチャのほんとうの人生は、ここから始まりるよ、と、 ドストエフスキーが言っているように、私には思えました。 漱石と同じです。 自分の運命の始末を自分でつけていくところから人生に微かな光が刺してくる。 つまりドストエフスキーの主人公達も最終的には、運命に逆らわず、それを受けいれるところから、再出発し、生き延びてゆきます。 ◯ ◯ ◯ ドストエフスキーが生きた時代は、それまで圧倒的にヨーロッパを征していたキリスト教が衰退し神の不在が囁かれ出す中、 一方では無神論や唯物論や唯物史観が、台頭してきます。 ヨーロッパの人々が拠り所にしていたキリスト教という柱が大きく揺らぎだし、それまでの価値や意味が崩壊するという、大きな時代の転換期です。 ロシアでもマルクス主義や社会主義が台頭してきて、ドストエフスキーは社会主義者のサークルに参加し捕らえられてしまいます。 判決は死刑でしたが、銃殺される寸前で恩赦がでて、シベリアへの流刑となり、シベリアで四年間刑に服します。 そのドストエフスキーに何があったかはわかりませんが、 彼は人間の悪意や狂気や偽善や虚栄やナルシズムを書いていきます。 ただ、彼の作品群を読んで私が感じるのは、 ドストエフスキーは人間の闇や狂気を暴こうとしているのではない。 彼はそれらに翻弄される人間達のその闇の奥にある微かなもの。 それは微かにしか見えず、壊れやすく、不確かではある何か。 人間を追求するといえばあまりに安易であり、 人間の幸福を問うといえば、 あまりにも軽薄で偽善すぎる。 もう訳がわからなくなるが、彼は確かに、人間の何かを探している。 おそらくドストエフスキーが探し当てたものと漱石が探し当てたものは、同じではないか、と私は思うのです。 多分それは、小さな微かな愛の世界で、 シベリアから帰ったドストエフスキーは社会主義から反転してキリストイエスの世界を探し始めます。 それは、死後3日で復活する奇跡のイエスではなく、 イエスが唱えた幼児のように純粋な愛の世界ではないか、と思います。 「カラマーゾフの兄弟」の中で、神の再来のように慕われ尊敬されたロシア正教の長老ゾシマも、 実は脛に傷を持つ訳ありの人物であり、 彼の死後信者達は復活を期待しますが、彼の遺体は腐食していきます。 これは私の独断の考えですが、 ドストエフスキーはキリストの教えの周囲のいわゆる奇跡のエピソードを削ぎ落として ただイエスが唱えた小さな小さな愛だけを取り出して、手のひらに乗せたような気が、私にはするのです。 だからこそ、愚かに放縦に自分を扱ったミーチャは最も厳しく刑に処されました。 しかしそれでもミーチャはそこから微かに見える光を辿りながらその先の人生を生きねばならない。 むしろ、そこからが彼の真の人生が始まりである、と、あの結末を書いたのでないか、と、わたしは思います。 それは、大仰ではなく、見ることができないほど微かかもしれず、 もしかしたら無いかもしれないが、おそらくある、というのが、 ドストエフスキーの作品を読んで漱石が書いた「至純至精の感情」の世界ではないかと、思います。 ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」を書き終えた数ヶ月後に亡くなります。 力尽きたように亡くなります。 漱石も「明暗」の途中で、息が尽きてしまいます。享年50歳です。 私はオメオメと生きて76歳になります。 76歳になってやっと、漱石やドストエフスキーの書こうとした事が少し理解できました。 人はみな、いかなる人の心の奥の奥には、 一点の「至純至精」の光があること、 ドストエフスキーも漱石も、その眼差しの先に、 それを見ていたこと。 私も、 端正な彼らの「知の世界」の後を追いながら、 その末の末の末席に、 ちょこんと座らせて貰えたことが、 この上なく、嬉しいです。 ただただ、嬉しゅうございます。 終わり。 #
by denshinbashira
| 2023-04-26 13:20
| 終わりを意識して書く
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