終わりを意識して書く、あとがき2、宇宙も地球も人間が主役では無い、賢く、そして慎み深く考える人間になる。 |

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2023年 05月 01日
このシリーズは、わたし自身の死(終わり)を明瞭に意識し、 思うところを存分に書きました。 テーマは二つです。 そして、無限の経済成長などない、ということ。 頻繁に災害が起き、 こんなに自然がもがき悲鳴をあげているのに、 まだ人間の欲望に駆られた文明を進めるのか。 もう抑止しなければならないことに 気づかないといけません。 もうひとつは、その欲望を沸き起こす人間の自我の問題は、 脳の構造から来る事。 人間の遺伝子は変えらない。しかし 人間は、 その理性を以て、自我と闘うことができる。 もがきあがき自分の自我の欲望と戦い、 懸命に生きる時、その先には光の出口があること。 人間は、人間になる為にその歴史を綴ってきたこと。 単なるお互いを喰い合う動物ではない生きものになる為に、 理性世界を構築したはずだ。 しかし、この先にくるAI時代においては、 人間は、もがきあがくことすら失ってしまうかもしれない。 AIや機械を媒介にしたよそよそしい人間の世の中になるかもしれない。 以上のような危機感を持ってかきました。 他の生命を喰らって生きるしかない人間だからこそ、 傲慢になってはいけない。 人が殺しあう戦争も紛争も、 その意味の無い殺し合いは、 他の生きもの達に比べて、 なんて恥ずかしいことをやっているのでしょう。 今人間に必要なのは、他の生きものには無い ![]() 賢く、そして慎み深く考える人間になることです。 欲望を広げるのではなく、 欲望を抑制する。 自然も生きものも、全部を生かすためにです。 その為に、私達は、高邁なこと感応する脳を、 獲得したのですから。 #
by denshinbashira
| 2023-05-01 06:26
| 終わりを意識して書く
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2023年 04月 28日
先般亡くなられた作家大江健三郎氏も、 人間の無意識にある高邁な世界をなんとか言葉にするべく頑張れました。 困難な難易度の高い仕事であったと思います。 もし漱石にノーベル賞の話が来てもおそらく彼は、 「そんなもんいらないよ」と一蹴したと思います。 おそらく漱石にとっては、いかなる権威も権力も関係ないところで、 小説を書いていたのではないかと、 思います。 彼も良寛が好きでしたからね。 私がそう思う訳が二つあります。 ひとつはシリーズ3「夏目漱石が見た西洋近代と未來」で書きましたが、 漱石は西洋には幻滅し、失望しており、 むしろ東洋の哲学や思想性を高く評価していたと思います。 多分西洋人のくれる賞などにはなびかなかったと思います。 もうひとつは、漱石はむしろそういう通俗的上昇志向を嫌い、 むしろ反骨な使命感を持って作品を書き続けたと思います。 それこそ至純至精に、です。 賞なんてものはどうでもよく、 それに関しては、 シベリアから帰ったドストエフスキーもおそらく同じだったと思います。 その立ち位置だからこそ、人間がより深く見えていたと思います。 通俗社会に距離をおきながらも、 深く厳しい目で人間を見ていた二人の作品の底に流れているのは、 人間に対する愛情です。 ただひたすらに、 自分の思うところだけに、 頭を駆使し、エネルギーを注ぎこんで人間を書いたと思います。 人間の欲どくしさや、いやらしいことや愚かしい事などに辟易しながらも、 ドストエフスキーなどは 死刑にされそうになったのですから 二人とも、絶望感も厭世感も並々ならないものがあったでしょうが。 それに悩み嫌悪しながらも、 人間が生きるほんとうの価値を 見ようとしたと思います。 故に、作品は深い陰影を持ち、厳しく暗渠を描くものになりました。 私が言いたいのはそういう使命感を持って生きることの凄さ、素晴らしさです。 それこそ、非凡中の非凡です。 見習いたいです。 人生をかけて漱石もドストエフスキーも、その使命を果たしていきました。 だから書く事以外のあれこれは無用なのです。 漱石は高名になり文部省から博士号を送られましたが、断ります。 また同じように、 時の総理大臣西園寺公望からサロンに招かれますが、断ります。 その時断った手紙の端に 「時鳥 厠半ばに 出かねたり」 と句を打ちます。 今、トイレの最中だから、出られません、と。 面白いね! 時鳥(ホトトギス)とは、漱石流アッカンベーではないか、と私は解釈しています。 時鳥は、もとは田植えを告げる鳥であり、一方では死を告げる鳥でもあり、親友の子規の名は、ホトトギスから由来したものです。つまり、 わしゃ、お前たちのような俗物とは、交わらん、と。 痛快でしょう! この痛快さ、 このあっけらかんさこそ、 私達が漱石に見習うべきことではないかと思います。 漱石が描いているのは中間インテリ層ですが、 それはその層が最も漱石にとってリアリティがあったからです。 しかし彼は、 コイツらがいちばん病んでると思っていたのではないでしょうか…苦笑。 私は、漱石の殆どの作品を若い時に読んだので、これからもう一度読み直しをしようと思っております。 その時、インテリ層では無く、社会の底流を支える々を、 漱石がどのように書いているのかに注目して読み込みたいと思っております。 そうしてもうひとつ特筆すべきは、 ドストエフスキーも漱石も、 なんと女性達をイキイキと描いていることか! 先般読み終えた「明暗」にでてくるお延も、お秀も、清子も、 書いている漱石の筆が踊っています! そして負けずにドストエフスキーも、女達を書くペンが踊ってます。 「罪と罰」のソーニャもドーニャもちょっと狂ったカーチャも、 なんて素敵なんでしょう! さらには「カラマーゾフの兄弟」にでてくる妖婦グルーシェンカも、ヒステリーのカーチャも、 みんな逞しく、力強く、素敵です。 私は漱石もドストエフスキーもどこか女性を尊敬していたと思います。 奥さんの鏡子さんに対しても、 女には、かなわないなぁ〜と思っていたかもしれませんね。 次回はあとがき2、を書きます。 あとがき2、なんて聞いたことない、なんていう人もいるかもしれませね(笑) でも、ちょっと厳しい事を書きます。 #
by denshinbashira
| 2023-04-28 07:47
| 終わりを意識して書く
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2023年 04月 26日
どうやら漱石は、ドストエフスキーの作品を殆ど全部読んだらしい、と江藤淳氏が書いていました。 やっぱりそうだったのか。 それで漱石の「則天去私」の思想とドストエフスキーの行き着いた地点とが似ていると思った事の合点がゆきました。 ドストエフスキーの最後の作品「カラマーゾフの兄弟」のテーマは父親殺しです。 誰が父親を殺したのか? 最終的には、父親殺しの犯人と思われる婚外子のスメルジャコフは自殺し、 長男のミーチャ(ドミトリー)が、犯人の濡れ衣を晴らせないまま判決をうけ、シベリアに送られます。 なぜドストエフスキーは、こういう結末にしたのか。 苦しみ苦しみ抜いたドストエフスキーが、最後に辿りついた結論が、 人間の業は消す事はできない、しかし、その先がある、という事ではなかったか、と私は思うのです。 ミーチャは、ほんとうは気のいい青年ですが、 金銭も、生活もだらしなく、放埒に生きています。 言動も支離滅裂です。 ただ周囲の目から見ると、遺産争いの中、金に困っているミーチャがいかにも父親を殺しかねないようにみえます。 そして彼の婚約者であったカーチャが 彼を犯人とする決定的な証言をしてしまいます。 それを覆す証拠もないまま、ミーチャに判決が下ってしまいました。 ミーチャはこの判決に従うしかありません。そしてシベリアに護送されていきました。 ただ小説の行間から見えてくるのは、ここからが始まりだよ、と言っているドストエフスキーです。 自分の業のまま、放埒にやりたい放題のことをしたミーチャのほんとうの人生は、ここから始まりるよ、と、 ドストエフスキーが言っているように、私には思えました。 漱石と同じです。 自分の運命の始末を自分でつけていくところから人生に微かな光が刺してくる。 つまりドストエフスキーの主人公達も最終的には、運命に逆らわず、それを受けいれるところから、再出発し、生き延びてゆきます。 ◯ ◯ ◯ ドストエフスキーが生きた時代は、それまで圧倒的にヨーロッパを征していたキリスト教が衰退し神の不在が囁かれ出す中、 一方では無神論や唯物論や唯物史観が、台頭してきます。 ヨーロッパの人々が拠り所にしていたキリスト教という柱が大きく揺らぎだし、それまでの価値や意味が崩壊するという、大きな時代の転換期です。 ロシアでもマルクス主義や社会主義が台頭してきて、ドストエフスキーは社会主義者のサークルに参加し捕らえられてしまいます。 判決は死刑でしたが、銃殺される寸前で恩赦がでて、シベリアへの流刑となり、シベリアで四年間刑に服します。 そのドストエフスキーに何があったかはわかりませんが、 彼は人間の悪意や狂気や偽善や虚栄やナルシズムを書いていきます。 ただ、彼の作品群を読んで私が感じるのは、 ドストエフスキーは人間の闇や狂気を暴こうとしているのではない。 彼はそれらに翻弄される人間達のその闇の奥にある微かなもの。 それは微かにしか見えず、壊れやすく、不確かではある何か。 人間を追求するといえばあまりに安易であり、 人間の幸福を問うといえば、 あまりにも軽薄で偽善すぎる。 もう訳がわからなくなるが、彼は確かに、人間の何かを探している。 おそらくドストエフスキーが探し当てたものと漱石が探し当てたものは、同じではないか、と私は思うのです。 多分それは、小さな微かな愛の世界で、 シベリアから帰ったドストエフスキーは社会主義から反転してキリストイエスの世界を探し始めます。 それは、死後3日で復活する奇跡のイエスではなく、 イエスが唱えた幼児のように純粋な愛の世界ではないか、と思います。 「カラマーゾフの兄弟」の中で、神の再来のように慕われ尊敬されたロシア正教の長老ゾシマも、 実は脛に傷を持つ訳ありの人物であり、 彼の死後信者達は復活を期待しますが、彼の遺体は腐食していきます。 これは私の独断の考えですが、 ドストエフスキーはキリストの教えの周囲のいわゆる奇跡のエピソードを削ぎ落として ただイエスが唱えた小さな小さな愛だけを取り出して、手のひらに乗せたような気が、私にはするのです。 だからこそ、愚かに放縦に自分を扱ったミーチャは最も厳しく刑に処されました。 しかしそれでもミーチャはそこから微かに見える光を辿りながらその先の人生を生きねばならない。 むしろ、そこからが彼の真の人生が始まりである、と、あの結末を書いたのでないか、と、わたしは思います。 それは、大仰ではなく、見ることができないほど微かかもしれず、 もしかしたら無いかもしれないが、おそらくある、というのが、 ドストエフスキーの作品を読んで漱石が書いた「至純至精の感情」の世界ではないかと、思います。 ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」を書き終えた数ヶ月後に亡くなります。 力尽きたように亡くなります。 漱石も「明暗」の途中で、息が尽きてしまいます。享年50歳です。 私はオメオメと生きて76歳になります。 76歳になってやっと、漱石やドストエフスキーの書こうとした事が少し理解できました。 人はみな、いかなる人の心の奥の奥には、 一点の「至純至精」の光があること、 ドストエフスキーも漱石も、その眼差しの先に、 それを見ていたこと。 私も、 端正な彼らの「知の世界」の後を追いながら、 その末の末の末席に、 ちょこんと座らせて貰えたことが、 この上なく、嬉しいです。 ただただ、嬉しゅうございます。 終わり。 ![]() #
by denshinbashira
| 2023-04-26 13:20
| 終わりを意識して書く
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2023年 04月 24日
生きることはほんとうに厄介です。 その厄介で、苦しい人間に、漱石が 語りかけているのです。 「世のに片付くものなどない」(道草) 「そんなら死なずに生きていらっしゃい」(ガラス戸の中) これらの言葉に漱石の立ち位置が見えてきます。 「則天去私」の「則天」は、 天の則、すなわち人間の自然性の世界でしょうか、ありのままの自分です。 その天から与えられた自分の「業」の運命を、必至で受け止め、 死なずにいきてらっしゃい。と言っているように思います。 更に「去私」とは、 「業」の中を生きながらも、 自分には必要のない感情や心、つまり 自分に執着する感情やエゴを 出来るだけ捨てておしまいなさい。 その心のゴミや闇を捨て去り、 「涙がこぼれる位有難い、そうして少しも取り繕わない、 致純至精の感情がながれだしてくる」(明暗より) そういう生き方をしてごらんなさい、と 漱石が問いかけているように思います。 ◯ ◯ ◯ 実は私は、若い頃から、 自分が大嫌いで、世の中も、他人も嫌いでした。 いわゆる人間嫌いです。 私は感情の起伏が激しく、心の中にはマグマがあり、 一度怒りに火がつくとなかなか消えません。 そのくせ、ちょっとのことに傷ついてすぐ折れてしまいます。 またコンプレックスが激しく、その裏返しの嫉妬や妬みにもなやまされました。 私は、そんな自分が嫌で嫌で、 だからもう少女の時から、早くお婆さんになりたいと思っていました…苦笑! お婆さんになって心が枯れて、この苦しさから脱皮したいと。 この世を捨てて、 お坊さんにもなりたいと思っていたら、お寺の息子と結婚しました…笑! そういう訳ですから、 私はいつも業と煩悩からの脱皮の繰り返しに人生を費やしたと思います。 その為に本をよみ、本の中の言葉にすがるように心を整理しては、日常性へ帰る、 そんな繰り返しであり、 つい最近まで、私の中に厭世観が、顔をだして困りました。 漱石の書簡をみると、やはり彼も人間嫌いであり、厭世感に悩まされていたようです。 それで、 自分の心がどうなっているか、 その根本の事を知りたいという思いが、 心理分析へのアプローチになりました。 ただ心理学はいわゆる心の内容を分析する為のソフト(手引き書)であり、 次にアプローチした脳科学で漸く ![]() 自分に起きてくる自我の感情や欲望は、 ![]() 私達の脳の中では、 ・遺伝子による不可避的自我現象と、 ・育成によって成熟していく前頭葉現象の、 二つの脳現象のせめぎ合っています。 それはシリーズ10で書きました。 「則天去私」の、天の則というのは、 私達が天から貰った自然性(遺伝子の世界)です。 人間はその自然性を生きるしかないのです。 その自分に刻印された遺伝子の世界を引き受ける。 嫌なところも良いところも、 全部引き受けることしか始まらないよ、という事です。 自分がやらかした失敗も間違いも、罪も罰も挫折も 自分が為した事全部引き受ける。 引き受けた上で、「去私」とは、 我執を捨てて どう生きるか、が問われる。 くだらない自分の感情や利害や メンツや外観やその他諸々の我欲を すっかりお掃除して(除去して) 清明に清々しくいきる。 はてには、自分の人生をどう完成させていくのかが問われてると漱石も私も、そう考えます。 漱石の書く主人公達はみんなそこで苦しみます。 そして自分の人生は、自分だけのものでは、ない、と私は考えます。 なぜなら、シリーズ5「人類はどこで間違えたか」で書いたように、 人間は、その弱さをカバーする為に社会をつくり、言葉をつくり、 人間の歴史を刻んできたからです。 つまりは、社会でしか生きれない人間にとって生きるとは、 自分が生きるこの社会の中で、 自分をどう生かせるか、って事が 大事な、大事なことなのです。 その使命感をしっかり実感し、 魂に刻んでおく。 それは、誰も助けてはくれない、孤独な仕事です。 しかし、 それこそが、人間であることの 高邁な証なんですよ。 冒頭の明暗の中に書いてある 「至純至精の感情」は、 漱石がドストエフスキーを読んで感動して「明暗」に書いた言葉です。 次回最終回にはドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の最終シーンについて書きます。 なぜドストエフスキーは、あの結末にしたか。 もしかしたら、その日は私の76回めの誕生日になるかもしれないなぁ〜。 #
by denshinbashira
| 2023-04-24 06:00
| 終わりを意識して書く
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2023年 04月 23日
その1。 以来どういう訳か漱石が好きで、ほとんどの作品は読んだと思います。 なぜ好きなのかは、 漱石の小説にながれている温度といいますか、どこか人間的な温かさがあり、惹かれたのだと思います。 それといわゆる男のナルシズムがないことです(笑) 三島や太宰などのその他の男の作家の感傷とナルシズムに私は閉口しますから…苦笑! ドストエフスキーを読んだのは、高校生の時です。 最初に読んだのは「白夜」という作品です。 これは高校生の私でもなんとなく理解できましたが、 次に読んだのは「カラマーゾフの兄弟」と「罪と罰」は、当時理解できませんでした。 しかし50代になってまた読み返してみた時、震えるような感動がありました。 やっと歳を経て、ドストエフスキーが何を伝えようとしたかが分かったからです。 救い難い人間の業と狂気。 もがきあがきながらも、生きるしかない、絶望的な人間の存在。 彼が命を費やしながら書く人間の 業のその奥の奥の遠いところにドストエフスキーが何を見たか? 以来「白痴」「悪霊」「やさしい女」を読み「罪と罰」と「カラマーゾフの兄弟」は 3回ほど読み返しました。 まあ、その他の作家の本も山ほどの本を読みましたが、 ドストエフスキーほどに惹かれた作家は他にはありません。 そして漱石です。 歳を取れば取るほど、漱石が近づいてきます。 漱石も人間の関係性とそこに現れる心理と人間の業を描いています。 それは抜き差しならぬ業であり、 それを漱石が追及していきます。 ドストエフスキーの躍動的で芸術的な人間の姿に比べ漱石のそれは いかにも日本的秩序の中、漢詩的な格調の文をもって描かれていきます。 ドストエフスキーが上流から下層までの人間を描くのに比べ、 漱石は、中間のインテリ層の、 ある程度教養を身につけている人間の生活を描きながら、 人間の葛藤心理を紐解いていきます。 そこには、彼がめざした世界、 彼がどうあろうとしたか、何を伝えたかったかが、 逆説的に書かれていきます。 今回漱石最後作品「明暗」を読み返しました。 ここでも漱石は逆説的に、 人間に問いかけます。 主人公達の心はいつもすれ違います。 その為お互いに相手に対する不信を持っており、 それを探りながら自分を取り繕います。 一方では、相手に言い訳ばかりをして、常に 自分が正直になる機会を逸していきます。 そうありながら、反対に、 相手を自分の思い通りするにはどうしたらいいかと、 頭を巡らせてばかりいます。 自分が正直ではない事に、 薄々気づいているのに、そこへアプローチできない人間達です。 なぜなら、正直になったら、 事と次第によっては相手に頭をさげなくてはならなくなるし、 相手からの愛情が冷めてしまうかも知れないし、 何やらの敗北感を味わう事になるかもしれないからです。 ただね、ほんとうは、違うんですよ。 ほんとうに相手(他者)と繋がってゆくには、正直でなければ、なりません。 取り繕う自分を、 自分の理性を以て ![]() そうして、勇気を持って正直になると、 そこには、爽快な風が吹き抜けていきます。 せいせいして、気持ちの良いことこの上なく、命が洗われます! 自分が生き返るのです。 「明暗」の主人公たちは、 いわゆる自分の業から脱出できず、 理性のトレーニングができていない人間達です。 自分の感情とエゴに負けています。 中途半端に頭が巡る、インテリ層の人間達です。その分始末が悪い。 その人間達を、まさに漱石のシャドーのような人物小林というインテリ階級から道を踏みはずした男が、 主人公達に嫌われながらも、 側からサーチライトのように彼らの姿を浮かび上がらせていきます。 お前ら社会の上っ面で生きているだろう!と。 ◯ ◯ ◯ この人間達がお互いを自分の負のスパイラルにまきこみながら、 どうなっていくのか、 残念ながら途中で漱石は亡くなってしまいました。 つづく。 #
by denshinbashira
| 2023-04-23 11:45
| 終わりを意識して書く
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