◆シリーズ11、ドストエフスキーの愛の世界と漱石の則天去私の世界! その2「則天去私」のほんとうの意味。 |
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2023年 04月 24日
生きることはほんとうに厄介です。 その厄介で、苦しい人間に、漱石が 語りかけているのです。 「世のに片付くものなどない」(道草) 「そんなら死なずに生きていらっしゃい」(ガラス戸の中) これらの言葉に漱石の立ち位置が見えてきます。 「則天去私」の「則天」は、 天の則、すなわち人間の自然性の世界でしょうか、ありのままの自分です。 その天から与えられた自分の「業」の運命を、必至で受け止め、 死なずにいきてらっしゃい。と言っているように思います。 更に「去私」とは、 「業」の中を生きながらも、 自分には必要のない感情や心、つまり 自分に執着する感情やエゴを 出来るだけ捨てておしまいなさい。 その心のゴミや闇を捨て去り、 「涙がこぼれる位有難い、そうして少しも取り繕わない、 致純至精の感情がながれだしてくる」(明暗より) そういう生き方をしてごらんなさい、と 漱石が問いかけているように思います。 ◯ ◯ ◯ 実は私は、若い頃から、 自分が大嫌いで、世の中も、他人も嫌いでした。 いわゆる人間嫌いです。 私は感情の起伏が激しく、心の中にはマグマがあり、 一度怒りに火がつくとなかなか消えません。 そのくせ、ちょっとのことに傷ついてすぐ折れてしまいます。 またコンプレックスが激しく、その裏返しの嫉妬や妬みにもなやまされました。 私は、そんな自分が嫌で嫌で、 だからもう少女の時から、早くお婆さんになりたいと思っていました…苦笑! お婆さんになって心が枯れて、この苦しさから脱皮したいと。 この世を捨てて、 お坊さんにもなりたいと思っていたら、お寺の息子と結婚しました…笑! そういう訳ですから、 私はいつも業と煩悩からの脱皮の繰り返しに人生を費やしたと思います。 その為に本をよみ、本の中の言葉にすがるように心を整理しては、日常性へ帰る、 そんな繰り返しであり、 つい最近まで、私の中に厭世観が、顔をだして困りました。 漱石の書簡をみると、やはり彼も人間嫌いであり、厭世感に悩まされていたようです。 それで、 自分の心がどうなっているか、 その根本の事を知りたいという思いが、 心理分析へのアプローチになりました。 ただ心理学はいわゆる心の内容を分析する為のソフト(手引き書)であり、 次にアプローチした脳科学で漸く 脳の物理的現象として心がある事を知りました。 自分に起きてくる自我の感情や欲望は、 脳の構造的現象であり、 私達の脳の中では、 ・遺伝子による不可避的自我現象と、 ・育成によって成熟していく前頭葉現象の、 二つの脳現象のせめぎ合っています。 それはシリーズ10で書きました。 「則天去私」の、天の則というのは、 私達が天から貰った自然性(遺伝子の世界)です。 人間はその自然性を生きるしかないのです。 その自分に刻印された遺伝子の世界を引き受ける。 嫌なところも良いところも、 全部引き受けることしか始まらないよ、という事です。 自分がやらかした失敗も間違いも、罪も罰も挫折も 自分が為した事全部引き受ける。 引き受けた上で、「去私」とは、 我執を捨てて どう生きるか、が問われる。 くだらない自分の感情や利害や メンツや外観やその他諸々の我欲を すっかりお掃除して(除去して) 清明に清々しくいきる。 はてには、自分の人生をどう完成させていくのかが問われてると漱石も私も、そう考えます。 漱石の書く主人公達はみんなそこで苦しみます。 そして自分の人生は、自分だけのものでは、ない、と私は考えます。 なぜなら、シリーズ5「人類はどこで間違えたか」で書いたように、 人間は、その弱さをカバーする為に社会をつくり、言葉をつくり、 人間の歴史を刻んできたからです。 つまりは、社会でしか生きれない人間にとって生きるとは、 自分が生きるこの社会の中で、 自分をどう生かせるか、って事が 大事な、大事なことなのです。 その使命感をしっかり実感し、 魂に刻んでおく。 それは、誰も助けてはくれない、孤独な仕事です。 しかし、 それこそが、人間であることの 高邁な証なんですよ。 冒頭の明暗の中に書いてある 「至純至精の感情」は、 漱石がドストエフスキーを読んで感動して「明暗」に書いた言葉です。 次回最終回にはドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の最終シーンについて書きます。 なぜドストエフスキーは、あの結末にしたか。 もしかしたら、その日は私の76回めの誕生日になるかもしれないなぁ〜。 #
by denshinbashira
| 2023-04-24 06:00
| 終わりを意識して書く
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2023年 04月 23日
その1。 以来どういう訳か漱石が好きで、ほとんどの作品は読んだと思います。 なぜ好きなのかは、 漱石の小説にながれている温度といいますか、どこか人間的な温かさがあり、惹かれたのだと思います。 それといわゆる男のナルシズムがないことです(笑) 三島や太宰などのその他の男の作家の感傷とナルシズムに私は閉口しますから…苦笑! ドストエフスキーを読んだのは、高校生の時です。 最初に読んだのは「白夜」という作品です。 これは高校生の私でもなんとなく理解できましたが、 次に読んだのは「カラマーゾフの兄弟」と「罪と罰」は、当時理解できませんでした。 しかし50代になってまた読み返してみた時、震えるような感動がありました。 やっと歳を経て、ドストエフスキーが何を伝えようとしたかが分かったからです。 救い難い人間の業と狂気。 もがきあがきながらも、生きるしかない、絶望的な人間の存在。 彼が命を費やしながら書く人間の 業のその奥の奥の遠いところにドストエフスキーが何を見たか? 以来「白痴」「悪霊」「やさしい女」を読み「罪と罰」と「カラマーゾフの兄弟」は 3回ほど読み返しました。 まあ、その他の作家の本も山ほどの本を読みましたが、 ドストエフスキーほどに惹かれた作家は他にはありません。 そして漱石です。 歳を取れば取るほど、漱石が近づいてきます。 漱石も人間の関係性とそこに現れる心理と人間の業を描いています。 それは抜き差しならぬ業であり、 それを漱石が追及していきます。 ドストエフスキーの躍動的で芸術的な人間の姿に比べ漱石のそれは いかにも日本的秩序の中、漢詩的な格調の文をもって描かれていきます。 ドストエフスキーが上流から下層までの人間を描くのに比べ、 漱石は、中間のインテリ層の、 ある程度教養を身につけている人間の生活を描きながら、 人間の葛藤心理を紐解いていきます。 そこには、彼がめざした世界、 彼がどうあろうとしたか、何を伝えたかったかが、 逆説的に書かれていきます。 今回漱石最後作品「明暗」を読み返しました。 ここでも漱石は逆説的に、 人間に問いかけます。 主人公達の心はいつもすれ違います。 その為お互いに相手に対する不信を持っており、 それを探りながら自分を取り繕います。 一方では、相手に言い訳ばかりをして、常に 自分が正直になる機会を逸していきます。 そうありながら、反対に、 相手を自分の思い通りするにはどうしたらいいかと、 頭を巡らせてばかりいます。 自分が正直ではない事に、 薄々気づいているのに、そこへアプローチできない人間達です。 なぜなら、正直になったら、 事と次第によっては相手に頭をさげなくてはならなくなるし、 相手からの愛情が冷めてしまうかも知れないし、 何やらの敗北感を味わう事になるかもしれないからです。 ただね、ほんとうは、違うんですよ。 ほんとうに相手(他者)と繋がってゆくには、正直でなければ、なりません。 取り繕う自分を、 自分の理性を以て 追い詰めなければならないのですよ。 そうして、勇気を持って正直になると、 そこには、爽快な風が吹き抜けていきます。 せいせいして、気持ちの良いことこの上なく、命が洗われます! 自分が生き返るのです。 「明暗」の主人公たちは、 いわゆる自分の業から脱出できず、 理性のトレーニングができていない人間達です。 自分の感情とエゴに負けています。 中途半端に頭が巡る、インテリ層の人間達です。その分始末が悪い。 その人間達を、まさに漱石のシャドーのような人物小林というインテリ階級から道を踏みはずした男が、 主人公達に嫌われながらも、 側からサーチライトのように彼らの姿を浮かび上がらせていきます。 お前ら社会の上っ面で生きているだろう!と。 ◯ ◯ ◯ この人間達がお互いを自分の負のスパイラルにまきこみながら、 どうなっていくのか、 残念ながら途中で漱石は亡くなってしまいました。 つづく。 #
by denshinbashira
| 2023-04-23 11:45
| 終わりを意識して書く
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2023年 04月 21日
人間の欲望は命に原初的にプログラミングされている属性としあるものです。 生命が生命から生まれる摂理として 否応なく人間が背負わなければならない宿命の脳と身体の機能です。 仏教では「業・ごう」と名づけられました。 それは本来は弱い人間達が生き延びる為に生まれてきた欲望の脳と身体の機能でもあるのですが。 初めにはっきりと申し上げておきます。 「心」は、脳と体の働きです。 心が脳や肉体とは別の働きという考えは、 19世紀ごろまではそう考えられていた、という事です。 残念な事にいまだに19世紀頃までの知識のままの人がたくさんいます。 シリーズ4で、人間の脳には大きく二つの世界がある事を書きました。 ひとつは人間が動物であった頃の名残りの古い脳で、 辺縁系を中心にする、本能的感情と欲望の世界です。いわゆる「業」の世界です。 勿論本能的感情の中は、純粋で素直な喜びや母性のように他者を慈しむ感情もあります。 もうひとつは、人間が人間になる為に獲得した新しい理性の脳の、 前頭葉の世界です。 ここでは集団のなかで、 他者と共に生きる為の知恵や、 高い理性の感情を生み出す機能が働きます。 そして困った事には、古い感情の脳より、理性の脳のほうが、 圧倒的に弱いのです。 この事は前にもお伝えしましたね。 古い感情の脳が興奮しだしたらもう、理性は遠くへと追いやられてしまいます。 カッカし出したらもう止まらない、っていう体験をした人は、思いあたるでしょ…笑! また母性愛の感情も、そこに溺れてしまうともう理性が働かなくなります。 反対に理性の脳は、意識的に育て、鍛えて、磨かなければ働きません。 確かに前頭葉の中には、高邁な事、美しい事感動する部位もありますし、 もともと理性が強い人もいます。 しかし、 その心を持ち続けるには、意識と意志が必要です。 意識して自分を律し、言い聞かせていかないと、ダメなんですよ。 昔の人はことわざなどで、それを共有していましたが、今はもうそれも消えてしまいましたね。 欲望的なある刺激が起こると、 瞬間瞬間に、感情と理性の二つが反応し綱引きをします。そして、どちらかに決着がついていくのですね。 日常的な小さな欲望ならなんてことはありませんが、 その欲望が拡大して、 過剰な性欲や食欲、所有欲や、支配欲や、独占欲や自己顕示欲、さらには物欲、金銭欲、征服欲、などなどなどが頭をもたげ それらの裏側に感情が付着して嫉妬や妬みや攻撃的感情が沸いてくるともう、手に終えませんねー。 殊にそれらの感情は倒錯したある種の快感ですから、それが常態化していくと、簡単にスイッチが入るようにもなってしまいます。 理性など吹き飛んでいきます。 恐ろしいのは、それらの欲望と感情に、 人格が乗っ取られてしまう事です。 乗っ取られない為には、感情を排除して、意識的にしっかりと、 理性を使って考えるトレーニングをする事です。 そして、大変残念ですが、現代社会は、理性や知性が働くより、 目先の利益や、更には欲望や感情に乗っ取られてしまった人間が多くなってしまいました。 そういう人間がリーダーになったり、社会の表面で浮遊して発言しています。 また、それに追随する大衆もたくさんいます。 大衆そのものが、何が正しく、正しくないか、の基軸を失ってしまったように思います。 それは、何よりも経済を優先させてしまった社会が作り出した結果だと私は思います。 皆様も、日本や世界のリーダーと言われている人物達の知性の低さには、もう気づいておられるでしょう。 欲望とは自分を満たしていく世界です。つまりは彼らも所詮は自分の為でしかありません。 そういう人間が核のボタンを握っているという、とんでもなく恐ろしい事に、今は、なっているのです。 話を欲望と感情の業に戻しましょう。 自分で自分と格闘し、苦しみ抜きながら、感情世界の負の闇の扉を開けて、自分で光をいれて行かない限り、 自分の本質が見えてきません。 自分で自分の闇と光にちゃんと向き合って、初めて、 自分の本質が見えてきます。 自分の本質がみえてこそ、 そこに底流する、人間の普遍的本質も見えてきます。 自分の本質が見えてくる中で、やっと、他者が見えて来るのです。 実は、この沸き起こる脳と体の現象である「 心」を、 どう磨き上げていくか、をどんどん消失しているのが、現代です。 ほんとうは私達は、ここで踏ん張らねばならないとは考えます。 社会の文化として、 ・正直さや ・誠実さや ・率直さや ・真っ当である事が、 稀薄になっては、いけないのです。 嘘、隠蔽、言い訳が罷り通る文化にしては、 いけないのです。 カウンセリングで大事だとされているのは 自分の生き方の言行が常に 自己一致している事です。 ここがねじれるとストレスが起き、 生命エネルギーが抑圧されてしまいます。 そして、 自分がねじれていると、社会もねじれていきます。 社会が薄汚れていかないように、 私達が意識して、どのように 知性の高い私達の文化を作り上げていくか。 これが早急な課題だと思います。 つづく。 #
by denshinbashira
| 2023-04-21 06:53
| 終わりを意識して書く
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2023年 04月 20日
時々娘がため息をつきます。 「私は何の為に生きているのだろうか?」と。 すかさず私が言います。 人間は欲望の為に生きているのではありません。 もっと高邁な世界を作るために生きているのです。 欲望の為に生きるのは、動物やサルの次元です。 しかしこう書くと霊長類が専門の山極先生に怒られるかもしれませんね。 いや猿やゴリラの方がよっぽど優しく慎み深く、お互いの為に生きてると…! ◯ ◯ ◯ 漱石が「行人」の中で伝えたかったのも 留まるところを知らない人間の欲望が為す科学技術の世界の事です。 留まる事を知らない人間の欲望を乗せた科学の世界は、 やがて人間を恐ろしいところへ運んでしまうだろうと、漱石が予感したのだと思います。 それは科学が恐ろしいというより、 人間が持っている欲望の、 恐ろしさです。 と同時人間の愚かさでもあり、 もしかしたら、愚かさが為す欲望こそが、人間を滅ぼすかも知れませんね〜。 その道具に科学技術が使われる、という事でしょう。 人間の欲望とは何か。 その欲望の果てには何があるか。 それを極めようとしたのが、ドストエフスキーと漱石だと思います。 ただ、 漱石の小説もドストエフスキーの小説も、かなりの高い読解力を持っていないと分かりません。 筋(ストーリー)だけを追っているとそれは見えません。 ストーリーの奥に蠢き、もがき、足掻き、傷つけあい、否定し合う、 人間の業の世界が描かれており、 最終的には破滅へと進行していくのですがしかし、 ドストエフスキーや漱石が、その業が破滅していく世界を伝えたかったか、というと、 そうではないのです。 彼らは二人ともが、 その先ある世界を探してたのです。 その業の世界で苦しみ抜いた先にある人間のある世界、 その闇を突破して開いた、 そのある世界を、 彼らは描こうとしたのだと、私は思います。 それは何かを書く前に、 人間の業とは何かを、脳と心理の世界から書いていきたいと、思います。 つづく。 #
by denshinbashira
| 2023-04-20 07:11
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2023年 04月 19日
私達は地球環境も経済成長も、有限の中を生きている。 だからこそ、これからは歴史からは消費経済の繁栄ではなく もっと地に足をつけた地道で この事をしっかり認識した上で、どのように他者や他国と共存していくか。 今は無理ですが、やがて少しずつその事に人々が気づいてゆかざるを得なくなるのではと、思っています。 今までのような資本主義の消費生活ではない、 もっと賢く聡明に、 地球環境をこわさない、 さらには自然や他の生き物と共生できる、経済や産業システムを 新しく創造していかなくてはなりませんね。 自然と人間の関係を初心に戻してやり直す。 そして、嬉しいことに、まだほんとうに極小ですがもうそれを始めている人々がいます。 奇跡の林檎の木村秋則さんや映画「どこかに美しい村はないか」でご紹介した、 林檎の自然栽培佐々木悦雄さん、菊池青年夫妻。 またや茂木町で農業と宿やとパン屋をやりながら自然どの共生を試みる君島青年夫妻とその仲間たち。 また岩手県田野畑村の吉塚さん夫妻の山地酪農は、 なんて素晴らしいことをやり遂げられたのでしょうか。 ここにも現実的で具体的な希望がみえるでしょ。 更に菊池青年の師匠である秋田大潟村の石山範雄さんと氏が経営する「石山農産」 それらの産物を扱う商店の「ナチュラルハーモニー」など。 その他にもあちこちで、 新しい時代が芽を出しているのです。 特に石山農産は、広くマーケットを見据え、 持続的な新しい産業としての自然栽培のお米作りです。 私はその経営戦略を高く評価します。 とかくありがちな 個人的な経営レベルでとどまってしまうのではなく、 ひとつの産業として、立体的に構築され、 確実にマーケットを掴み広げていく、経営的ビジョンをもつモデルとして、 「石山農産」の試みに希望をみます。 そしてまた一方で、お伝えしたいのは 美しい村の復活について。 産業革命が進む中のイギリスで、 動力になる石炭が取れなかったばかりに、時代から取り残された村がありました。 それが湖水地方、コッツウォルズです。 ところが今コッツウォルズには、世界中から人々がやって来ます。 人工的な街ではなく、自然の中のその美しい村で、人々が癒される。 私は、そこに遠野を重ねます。 それは遠野だけではなく、日本の他の地方にも同じように、 時代に消費されなかった村があるでしょう。 そこには私達の大切な歴史と伝統と風土が生き残っている。 その村をどのように 村経営をしていくか、も とても大切な課題です。 ◯ ◯ ◯ 人間は間違いだらけ。 試行錯誤の中を生きるしかありません。そういう中で、 必要なら立ち止まり、厳しく精査しながら、やり直していく知性や勇気こそが、 人間を生き延びさせた行くと、 思います。 #
by denshinbashira
| 2023-04-19 07:29
| 終わりを意識して書く
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